雑記4 東さん、いまさらそれはないでしょう

 雑記を書き始めた理由の一つは、noteに人の批判ばかり書いているのも印象悪いよなあと思ったからなのだけれど、結局また批判を書くことになりそう。いくらなんでもそりゃないでしょ、という発言をみてしまったので。

 5月25日、批評家の東浩紀さんが、笠井潔さんと藤田直哉さんの対談集『文化亡国論』について、こんなツイートをした。

この本のなかではぼく(東浩紀)は、3.11までは環境管理型権力万歳で動物化万歳のユートピアを夢見ていたけれど、3.11以後は転向してそうじゃなくなったと書いてあるけれど、それはさすがに悪意ある要約というもので、実際にはそうではないです。むしろ環境管理型権力を批判していたはず。

https://twitter.com/hazuma/status/603036378083917824

環境管理型万歳の社会のなかで、別の可能性をいかに見いだすかというモチーフで、ぼくはデビュー作『郵便的』から『弱いつながり』まで一貫しています。もし3.11以前/以後で変わったとすれば、サブカルの態度です。むかしはサブカルに可能性(抵抗?)を見いだしたけど、いまはそうではない。

https://twitter.com/hazuma/status/603037242760634369

 (環境管理型権力が何か知らない人はwikipediaを見てください)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%92%B0%E5%A2%83%E7%AE%A1%E7%90%86%E5%9E%8B%E6%A8%A9%E5%8A%9B

 東さんが環境管理権力に一貫して批判的だった?この発言にはさすがにびっくりだ。ぼくは東さんと環境管理型権力の問題について、以前次のような記事を書いたことがある。

「東浩紀の伝言ゲーム――アーキテクチャー論をめぐる、大塚英志との論戦について」

https://note.mu/shinkai35/n/nc32d37d5bded

 この記事に出てくる「アーキテクチャーによる規制」は「環境管理型権力」と、おおむね同じものだ。

 くわしくは元の記事にあたってほしいが、とりあえず内容を簡単に説明しておこう。2000年代に行われた、東さんと大塚英志さんのいくつかの対談で、東さんは環境管理型権力には抵抗しがたい、なぜなら権力者の真意が見出せないから、という話を繰り返していた。大塚さんは、そんな東さんにたいして、何も考えずに環境管理型権力に従うのはまずいでしょう、と反発する。しかし東さんは、環境管理型権力に意図を見出そうとすれば、監視妄想や陰謀史観に陥ってしまう、と述べるばかりだった。

 つまりこれらの対談では、環境管理型権力を危険視していたのは主に大塚さんであり、東さんは、そんなことをするとかえって妄想に陥っちゃいますよ?と大塚さんに水をさしていたのである。

 それだけではない。07年の対談では、東さんは「オタクたちが楽しく遊べる遊び場をどのように維持していくか(『リアルのゆくえ』、p188)」が現在の自分の関心であると述べている。文脈からして、この「遊び場」というのは、「動物化」したオタクたちを、彼らが気づかぬ間に世話してくれる、環境管理型権力によって運営される社会のことだろう。

 07年の対談で、大塚さんは、そんな東さんにかなり批判的な態度をとっている。東さんが一貫して環境管理権力に批判的だったのなら、東さんと大塚さんはなぜ、このとき論争する必要があったのだろうか。

 主張を変えたいのなら、誤りを認めて撤回なり修正なりすればいい。なぜ、過去の主張をなかったことにしようとするのか。しかも、環境管理型権力の評価は、東さんの問題意識にとっては核心に近い事柄のはずなのに。

 このnoteで、主にポストモダン系のわかりにくい文章をずいぶん批判してきた。過去の捏造をたやすく行えるのも、文章がわかりにくいからだ。ある種の人々があいまいな文章を書くのは、明言することで零れ落ちる多様なニュアンスを救い上げる、といった高尚な理由からではない。たんに責任逃れの余地を残しておくためだ。少なくとも彼らのふるまいを見る限り、そうとしか思えない。

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