雑記:フィクションと願望充足

 ハッピーエンドの物語は、現実の欲求不満を埋め合わせるためにある、と考えているらしい人をしばしばみかける。主人公がさいごヒロインと結ばれて幸せになる話を、「主人公と自己を同一視して、恋人がほしいという願望を充足しているんだろう」と評するような人だ。

 この意見が100パーセント間違っているとは思わない。ボヴァリー夫人の例もあるし。でも、登場人物を自己と同一視することから得られる喜びは、フィクションが与えてくれるもののひとつにすぎない。主人公の恋愛が成就する話でいえば、主人公が好きだから、彼が幸せになってうれしいとか、主人公とヒロインが好きだから、二人が幸せになってうれしいという理由で楽しんでる読者も多いんじゃないか。

 まどマギで例えてみよう。ぼくは杏子が好きだから、TV版ラストで杏子が「せっかく友達になれたのに……」というシーンで、あ、短いあいだでも、とうとうさやかと友達になれたんだ、わかりあえたんだ、とおもってうれしかった。杏子が好きだから、彼女の気持ちが少しでも報われたことがうれしかったわけだ。しかし、杏子と自分を同一視することで、さやかと友達になりたいという願望を充足しているわけではない。だって、ぼく自身はどちらかというとさやかは苦手だもの。

 願望充足理論が危険なのは、ハッピーエンドを迎えるフィクションの魅力を一瞬で説明できてしまうからだ。濫用になってしまいやすい考え方なのである。恋愛物がすきなの、恋人がほしいんだね。ヒーロー物がすきなの、ヒーローになりたいんだね。本人としてはものを考えたつもりでも、じつはほとんど同語反復しているだけだったりするのだ。

 

 

 


 


 

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