東浩紀『動物化するポストモダン』はどこがまちがっているか――データベース消費編

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 批評家、東浩紀は、現代社会論的な観点から、アニメやノベルゲーム、ライトノベルといった、いわゆるオタク系のサブカルチャーをしばしば論じています。この方面での代表作は、『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会(以下動ポモ)』になるでしょう。

  しかし東のオタク文化論にたいする、人々の評価は安定しません。東の提示した概念(データベース消費、動物化など)にもとづいて自論を展開する論者は、すでに何人も現れています。いっぽうで、彼の主張を強く批判する論者もあとを絶ちません。なぜでしょうか。理由の一つは、一見平易な文章で書かれているにもかかわらず、『動ポモ』には難解な面があり、論者により解釈が一致しないことにあります。

 肯定するにせよ批判するにせよ、『動ポモ』に満足な評価を下すためには、まずこうした状況を解消しなければなりません。ぼくは本稿で、同書の難解さはなにに由来しているのか、そしていったいなにが書かれているのかを、わかりやすく説明してみたいと思います。

『動ポモ』を要約すると 

 東は『動ポモ』で、日本社会では九〇年代に近代が終わり、ポストモダンという新しい段階が到来したと主張しています。東によれば、近代とは、社会が「大きな物語」によってまとめられていた時代のことです。この「大きな物語」について、東は次のように述べています。 

 一八世紀末より二〇世紀半ばまで、近代国家では、成員をひとつにまとめあげるためのさまざまなシステムが整備され、その働きを前提として社会が運営されてきた。そのシステムはたとえば、思想的には人間や理性の理念として、政治的には国民国家や革命のイデオロギーとして、経済的には生産の優位として現れてきた。「大きな物語」とはそれらシステムの総称である。(『動ポモ』、p44) 

 また別の箇所では、東は「大きな物語」が「政治的なイデオロギー(『動ポモ』、p55)」であるとも述べています。

  しかし東によれば、第一次大戦以降、「大きな物語」はしだいに弱体化していきました。そしてポストモダン期になると、大量の情報の集積からなる「データベース」というものが、「大きな物語」のかわりに社会を支えることになります。

 東は『動ポモ』で、この変化が社会のさまざまな領域に影響を及ぼすと主張しました。とくに、同書で彼が注目しているのは、人々がフィクションを消費するスタイルです。彼によれば、ポストモダンの人々は、従来とはちがうやり方でフィクションを楽しむようになります。こうした新しいフィクション消費のスタイルを、東は「データベース消費」と呼びました。そして、アニメやゲームの消費者(いわゆるオタク)は、なかでも「データベース消費」に特化した人々であると考えているようです。もうすこし踏みこんで説明しましょう。

 オリジナルのオリジナルとしての不思議な魅力、それは現代思想では、しばしば「作家性の神話」などとも呼ばれてきた。八〇年代から九〇年代、そして二〇〇〇年代へのオタク系文化の変遷を概観するかぎり、この領域でもまたその神話は急速に衰えている。(中略)そこではもはや作家は神ではない。(『動ポモ』、p89) 

  東によれば、ポストモダンを生きる現在のオタクたちは、作品の作家性を重視しませんし、テーマ性やメッセージ性にも興味を持ちません。彼らが注目するのは、作品に含まれるキャラクターや設定、さらには、それらのキャラクターや設定を構成するさまざまな情報の断片です。

 東はこうした断片的な情報を「萌え要素」と名付けました。東は、昨今(二〇〇一年当時)のアニメなどに登場するキャラクターデザインの多くが「猫耳」「触覚のように刎ねた髪」「メイド服」などの「萌え要素」の組み合わせからなっていると述べています。

 東が「データベース消費」と呼ぶのは、このような、フィクションに「萌え要素」だけを求める受容スタイルのことです。さきほど、東の説によればポストモダンの社会は、「大きな物語」のかわりに、情報の集積である「データベース」によって支えられているのだ、と説明しました。東は、オタクたちがフィクションに、「萌え要素」の「データベース」を見いだしているのだ、というのです。

『エヴァ』論とノベルゲーム論の矛盾 

 東のこうした主張は、どのくらい的を射たものなのでしょうか。より詳しく検討してみましょう。彼は「データベース消費」されている作品として、『エヴァ』、『デ・ジ・キャラット』、そして美少女ノベルゲームなどを挙げていました。彼によれば『エヴァ』の消費者の多くは「最初から情報=非物語だけを必要(p62)」としていたのです。

(前略)この作品でガイナックスが提供していたものは、決してTVシリーズを入口とした一つの「大きな物語」などではなく、むしろ、視聴者のだれもが勝手に感情移入し、それぞれ都合のよい物語を読み込むことのできる、物語なしの情報の集合体だったわけである。(『動ポモ』、p61-62)

  この箇所、ちょっと要注意です。よくみると、前述の「大きな物語」と、たんにストーリーを指す「物語」の、二つの語が入り乱れていて紛らわしいですよね。 

 とはいえ、文意を特定するのはさほど難しくありません。そもそも「データベース消費」は「大きな物語」の衰退によって生じたのですから、『エヴァ』のファンが「大きな物語」を求めていないとされているのは、疑問の余地がないでしょう。 

 では、作品のストーリーという意味での「物語」についてはどうでしょうか。東が『エヴァ』は二次創作的な空想の素材として「物語なしの情報の集合体」「情報=非物語」を提供していたにすぎなかった、と主張していることからして、作品自体の「物語」もやはり、『エヴァ』の消費者にはさほど重視されていなかった、ということになるはずです。参考までに、この数ページ前にある、次の記述もチェックしておきましょう。

 (前略)九〇年代には、原作の物語とは無関係に、その断片であるイラストや設定だけが単独で消費され、その断片に向けて消費者が自分で勝手に感情移入を強めていく、という別のタイプの消費行動が台頭してきた。この新たな消費行動は、オタクたち自身によって「キャラ萌え」と呼ばれている。(『動ポモ』、p58)

 ここでも東は、九〇年代には「原作の物語とは無関係に」イラストや設定が消費されるようになったことを強調しています。  

 東は続けて、アニメ『デ・ジ・キャラット』や検索エンジン「TINAMI」などを例に挙げ、『エヴァ』以降のオタク文化ではこうした傾向がより加速していった、と説明します。東によれば、『デ・ジ・キャラット』のキャラクターデザインは、オタクに愛好される「猫耳」「メイド服」といったステレオタイプな要素の組み合わせにすぎません。検索エンジン「TINAMI」では、こうした要素によって好みのキャラクター画像を探すことができます。東はここで、こうしたステレオタイプな要素を「萌え要素」と名付けています。この用語については、すでに一度説明しましたね。

  この議論は、ポストモダンには作家性が求められなくなる、という主張とも関係しています。今やオタクが求めているのは情報だけであり、その情報も既存のステレオタイプから選ばれているわけですから、必然的にポストモダンの人々は作家性を求めていない、という結論になるわけです。 

 東によると、こうした傾向は、ときには物語構造にも及びます。物語の類型そのものが「萌え要素」と化してしまうのです。たとえば東によると、多くのファンをもつ美少女ノベルゲーム『Air』は、「『不治の病』『前世からの宿命』『友だちの作れない孤独な女の子』といった「萌え要素」が組み合わされて作られた、きわめて類型的で抽象的な物語(p114)」しかもっていません。東は、こうしたゲームのユーザーについて、次のように述べています。

 (前略)彼らが「深い」とか「泣ける」とか言うときにも、たいていの場合、それら萌え要素の組み合わせの妙が判断されているにすぎない。九〇年代におけるドラマへの関心の高まりは、この点で猫耳やメイド服への関心の高まりと本質的に変わらない(『動ポモ』、p115)。

 (前略)『Air』に泣いているオタクたちの消費行動もまた、「動物的」という形容にまさに相応しいように思われる。(中略)彼らは、感情的な満足をもっとも効率よく達成してくれる萌え要素の方程式を求めて、新たな作品を次々と消費し淘汰している。(『動ポモ』、p128)

さて、東の「データベース消費」論をざっと紹介してみましたが、この議論、ちょっとおかしなところがあります。あえてそこが目立つように要約しましたから、すでにお気づきの方もいるでしょう。

 東は、『エヴァ』については、視聴者はそこに、空想を膨らませるための「物語なしの情報の集合体」を求めていたにすぎないと述べていました。ところが『Air』や『To Heart』などのノベルゲームを論じるときは、オタクたちが、その「類型的で抽象的な物語」に「感情的な満足」を求めるさまを「動物化」の証拠だとあげつらっています。

 つまり東の主張どおりなら、オタクたちは『エヴァ』を鑑賞するときは原作のストーリーを無視し、ノベルゲームをプレイするときは、原作のストーリーに没入するわけです。どちらも「データベース消費」されているはずなのに、ストーリーに接する態度はまるで逆になってしまっています。これは矛盾以外のなにものでもありません。 

 なぜこうした矛盾が生じてしまったのでしょうか? 理由は推測できます。『エヴァ』はシリアスで複雑なストーリーをもつアニメであり、そのことはよく知られています。オタクがそうした作品を好んでいるという事実が、東の「動物化」論にとって都合が悪いことは、容易に見当がつくでしょう。だから東は、オタクが求めていたのはあくまで「情報=非物語」であって、ストーリーを好んでいたわけではない、と論じなければならなかったわけです。

 しかし『Air』や『To Heart』などの美少女ノベルゲームについては、また別の問題が発生してします。そもそもゲームというものは、必ずしもストーリーやドラマをもちません。さらに、東が『動ポモ』で挙げている美少女ノベルゲームはみな、ポルノ的な性格を備えてもいます。いうまでもなく、ポルノも本来ならストーリーをたいして必要としませんよね。アダルトビデオ、ポルノ小説、ポルノマンガは、しばしば性描写を展開するためだけの添え物的なストーリーしかもっていません。

 しかし美少女ノベルゲームの場合、名作とされているもののなかにもゲーム性が乏しいものはたくさんあるし、また人気が出ると、性描写をカットした全年齢対象版がのちに発売されることもよくあります。それらのソフトは、ゲーム性やポルノ性がなくても売り物になるほどのストーリー性を備えていたわけです。

 すなわちノベルゲームの流行とは、本来さほど物語性を必要としないはずのジャンルに、ストーリー性やドラマ性が占める比重の高い作品が増えてきたという現象でもあるのです。当然ながら、オタクもそのようなストーリー性の高い作品を求めていた、ということになります。この事実は、現在のオタクが「情報=非物語」だけを必要としているという、東が『エヴァ』について述べていた説ではまったく説明できません。

 だから東は、ノベルゲームを論じる段になると、それらのストーリーは「類型的で抽象的」だといい、そのような形骸化したストーリーに没入することこそがポストモダン化のあらわれであるという、これまでとはまるでちがう議論をする必要があったわけです。その結果、『エヴァ』とノベルゲームでは、「データベース消費」の内実が完全に分裂してしまうことになりました。 

 ラベリングとグラデーション論法

 『動ポモ』は、オタクが作品のストーリーを消費するやり方について、前半と後半でまるでちがった説明をしています。前半の、『エヴァ』を中心にアニメについて論じた箇所では、オタクは原作のストーリーを無視するとされており、後半のノベルゲームについて論じた箇所では、オタクは原作のストーリーに没入するとされているのですから。にもかかわらず、この点を批判した論者は、ぼくの知るかぎり今まで一人もいません。なぜ誰も、これほど大きな矛盾に気づかなかったのでしょうか。 

 鍵は「萌え要素」という用語にあります。「データベース消費」とは、作品に「萌え要素」を求める消費スタイルのことでした。しかしじつは、この「萌え要素」という用語の意味が箇所によって変化しているのです。そのため、「データベース消費」の意味も箇所によって異なったものになってしまう、という仕掛けです。 

 くわしくみてみましょう。『エヴァ』について、東は、オタクが求めているのは「情報=非物語」だけだ、と述べていました。続く箇所で、東はこの「情報=非物語」を「萌え要素」と名付けます。そして「萌え要素」についてくわしく説明する段階で、さりげなく「物語の類型的な展開」をそのなかに含めてしまうのです。

  萌え要素のほとんどはグラフィカルなものだが、ほかにも、特定の口癖、設定、物語の類型的な展開、あるいはフィギュアの特定の曲線など、ジャンルに応じてさまざまなものが萌え要素になっている。(『動ポモ』、p67) 

 そして、ノベルゲームのストーリーはしょせん、そうした類型的な展開のよせあつめからなる「萌え要素の方程式」にすぎない、と断じることでトリックが完成します。

 これにより、『エヴァ』のファンが作品に「非物語」しか求めていないという話と、ノベルゲームのプレイヤーが作品の「物語」に没入しているというまったく逆の話が、字面のうえではどちらも、オタクが作品に「萌え要素」を求めているという、同じ話にみえるわけです。 「データベース消費」と「萌え要素」という二つの用語は他の論者にも使われたりしていますが、もともとはどちらも、論旨の破綻を隠すために考案されたものとみてまちがいないでしょう。

 『動ポモ』が刊行されてから一〇年以上ものあいだ、誰もこのトリックに気づかなかったという事実は、ラベリングを使用した一見わかりやすい議論が、いかに注意すべきものであるか、という教訓を与えてくれます。たしかに、ラベリングは物事の見通しをよくしてくれることもあるでしょう。しかし、いったんラベルを貼ってしまうと、その内実がいつのまにか変わっていても、人はなかなか気付かないものなのです。

 このような、用語の意味を少しずつ変えていき、最終的にはまったくちがう主張を同じものにみせるトリックを、グラデーション論法と呼ぶことにしましょう。『動ポモ』の場合、まず「データベース消費」という用語の意味が一貫しておらず、それをごまかすために、「萌え要素」の意味も箇所によって変わるという、二重のグラデーション論法が行われているわけです。

 そのうえ、「データベース消費」のグラデーション論法を成立させているトリックは、これだけではありません。すでに一度軽く触れましたが、『動ポモ』前半の『エヴァ』を論じた箇所で、東は「大きな物語」と「物語」という用語をまぜこぜに使っていました。

 (前略)この作品でガイナックスが提供していたものは、決してTVシリーズを入口とした一つの「大きな物語」などではなく、むしろ、視聴者のだれもが勝手に感情移入し、それぞれ都合のよい物語を読み込むことのできる、物語なしの情報の集合体だったわけである。(『動ポモ』、p61-62) 

 「大きな物語」と「物語」では意味がちがうはずなのに、東は両者を混在させています。彼がこのようなまぎらわしい書き方をした理由は、『動ポモ』後半、ノベルゲームを論じた箇所の直前にみられる、次の記述をみればわかるでしょう。 

 (前略)この一〇年間、オタク系文化では、大きな物語の凋落と反比例するように、作品内のドラマへの関心がますます高まってきた(中略)。筆者はいままで、いまやオタク系文化において大きな物語は必要とされていないと論じてきた。しかし現実には、『エヴァンゲリオン』以降、ノベルズのブームやコミックの物語回帰にみられるように、読者や視聴者を一定時間飽きさせず、適度に感動させ、適度に考えさせるウェルメイドな物語への欲求はむしろ高まっているように思われる。そして筆者の考えでは、まさにこの矛盾にこそ、データベース消費を担う主体の性質がもっともはっきりと現れている。(『動ポモ』、p109)

 この引用部で東が述べているのは、ようするに「え、ポストモダンの消費者は、物語を求めないんじゃなかったのかって?誤解だなあ。ぼくは、オタクが『大きな物語』、つまりイデオロギーや世界観を求めなくなるという話をしていただけですよ。作中のドラマという意味での『物語』への欲求はむしろ高まっている、これがぼくの考えです」といったところでしょう。

 もちろんこれは大嘘です。『動ポモ』前半には、『エヴァ』の消費者は「情報=非物語だけを必要としていた(p62)」のであり、「この作品でガイナックスが提供していたものは、(中略)物語なしの情報の集合体だった(p61-62)」とはっきり書かれているし、九〇年代のオタクは「原作の物語とは無関係に(p58)」イラストや設定を消費するようになったとも述べられていましたから。

 つまり東は、『動ポモ』前半では、「データベース消費」をするオタクは「大きな物語」も原作の「物語」も必要としないといい、後半になると、オタクは「大きな物語」は必要としないけれど原作の「物語」は欲する、と主張しています。この時点ですでに、矛盾に気付かれにくいような紛らわしい書き方がされているわけですが、隠蔽工作をより完璧にするため、彼は前半から「大きな物語」と「物語」とをまぜこぜに使って、あらかじめ読者を混乱させておこうとしたのでしょう。これもグラデーション論法を成功させるためのトリックでした。 

結論

 ぼくははじめに、『動ポモ』の解釈は論者によって一致しない、と書きました。今なら、その理由を簡単に指摘できます。『動ポモ』の解釈が人によってちがうのは、箇所によって書いてあることがちがうからという、ただそれだけの理由でしかありません。東の巧妙なトリックにより、今まで誰もそれに気付かなかっただけのことです。

 トリックさえ取り払ってしまえば、『動ポモ』を批判するのは簡単です。そもそも、東が自説を正当化するために、躍起になって数々の欺瞞を働かなければならなかったという事実自体が、彼の議論がいかに現実とそぐわないものであるかを、雄弁に物語っているのではないでしょうか。

 一番目立つこじつけは、『エヴァ』の消費者は原作のストーリーを無視していたという、例の主張でしょう。よく知られているように、このアニメは途中までは完成度の高いドラマを提供しながら、終盤で突然、それまでのストーリーを崩壊させてしまいました。そのためファンたちは、監督である庵野秀明を批判したり、放置された謎を解こうと頭をひねったりしましたし、のちに劇場版が公開されれば、今度こそ納得のいく結末が観られるのではないかと映画館に殺到しました。こうしたことすべては、ファンが『エヴァ』の物語内容に深く魅せられていたことを示しています。

 また、アニメ雑誌は現在もクリエイターへのインタビューを掲載しているし、ネット上には各話ごとの脚本家や作画監督にまで注目したTVアニメ分析が数多く存在します。オタクたちが作家性を重んじていないという説は、こうした現状と完全に相反するものです。

 オタクが作家性を重んじないという東の主張が受け入れられた背景には、二次創作への誤解もありました。二次創作の存在を根拠に、コピーとオリジナルの区別がないポストモダンが到来したと主張する論者は、東に限りません。しかし歴史をふりかえれば、二次創作はさほどめずらしいものではないのです。

 一九二〇年代から六〇年代初頭のアメリカでは、ティファナ・バイブルと呼ばれる非合法のポルノマンガが流通していました。そこでは、アニメやマンガなどのキャラクターのセックスが描かれています。ようするに、アメリカには二次大戦前から二次創作ポルノがあったのです。ネット上に現物を公開しているサイトもありますから、興味のある方はTijuana biblesで検索するとよいでしょう。

 著名な文学者による二次創作の例もあります。一九世紀の文豪バルザックは、短編小説『神と和解したメルモス』に、C・R・マチューリンの恐怖小説『放浪者メルモス』の主人公ジョン・メルモスを登場させました。またプルーストの『ルモワーヌ事件』には、一九世紀を生きていたはずの、バルザックの作中人物たちが登場し、プルーストがこれを執筆した当時である二〇世紀初頭のニュースに言及したりしています。だからといって、バルザックやプルーストが、自分の模倣した作品の作家性を軽視していたとは、誰もいわないでしょう。

 そもそも人はフィクションを楽しむとき、作中人物が自分の知人であるかのように、彼らの不幸に胸を痛めたかと思えば、今度は制作者の演出技法を冷静に分析したりと、異なった複数のモードによる鑑賞を、なんら支障なく行うものなのです。

 また、物語や作家の名前抜きでキャラクターが流通するという現象は、むしろオタク的でない文化圏でこそ一般化しています。原作のマンガを読んだことがなく、作者チャールズ・シュルツの名を知らなくても、スヌーピーのグッズをもっている人はいくらでもいますし、またハローキティのように、背景の物語をたいしてもたないキャラクターだってあります。

 東の議論は二重にまちがっています。第一に、オタクは物語性や作家性を比較的重視する人々です。第二に、もしオタクがそれらを無視するようになったとしても、そうした消費は他のジャンルではもともとありふれていますから、ポストモダン化や「動物化」の証拠にはなりません。いくら話をこじつけても、これほど現実離れした議論の筋を通すには限界があります。そのため東は、随所に噴出する矛盾を、グラデーション論法などのトリックを駆使して隠蔽する必要があったのです。 

 『動ポモ』の分析がすすむにつれて、ぼくは薄気味悪さを覚えるようになりました。東浩紀という個人にたいしてではなく、これほど無内容な言論が思想としてまかりとおる、日本という国にたいしてです。ソーカル事件というものをご存知でしょうか。科学用語を濫用した思想的な言論の蔓延を憂いた物理学者アラン・ソーカルが、あえて科学用語をデタラメに散りばめた思想もどきの論文を評論誌に投稿したところ、じっさいに掲載されてしまい、その手の思想の信頼がガタ落ちとなった出来事です。『動ポモ』は、いわばこのソーカルの論文のようなものです。東は自分で種明かしをしませんでしたが、ちがいはそれしかありません。

 東は、サブカルチャーやその消費形態に現代が反映されていると主張します。しかし「データベース消費」とか「動物化」とかいった空虚な用語が、意味さえ追究されないまま知的であるはずの人々のあいだに流通し、「オタクはろくにものを考えない連中だ」というよくある偏見が、小難しい言い回しによって粉飾され、現代社会の課題として論じられる状況のほうが、よほど現代日本の病理を反映しているのではないでしょうか。


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