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惨めさを自覚しなければ世界(宇宙.夢)を放棄しようとしないetc

https://youtu.be/DKjGvbhgHJ0

Aさん あ〜っていう温かい感じ、幸せという感じも悪夢ですか?

大橋のり子 何かによって感じているのであれば悪夢。これもうまく隠されるんだよね。
赦していくと色んな兄弟がいい人になっちゃって、状況も変わって、ああ、この世界本当に素晴らしいなあ、奇跡の世界だなあ、っていうのも、いい感じに見えるけれども、そこに価値を置いているっていうのが、隠されていたりする。かなり。
赦したら奇跡が起きていって、いい感じの人生が展開されているなあ、ありがたいことだなあ、と言いながら、この世界を放棄する気がないっていうところが、案外隠されていることがあります。

Aさん 神の延長をしていくことになるのでは?

のり子 すごく難しい。紙一重の話。奇跡満載の世界が、自分の目の前で展開されていくかどうかが、重要なのではない。そのような世界が展開されるっていうことは大いにある。けれどもそこに私の癒しがあるのではない。

自分の心が先に癒されたから、その反映がただ現れるだけ。鏡が伏せてあって、号泣しながら、本当にありがたいなあって、神の恩恵だなあって自分が思っている時に、ありがたいなあっていう顔が(世界という)鏡を見た時に現れるだけ。先にありがたさを感じて、ありがたいっていう全身全霊の表情になっているから、その映しだされた鏡にはありがたいって言ってる私が映るだけの話。

これは当たり前のことで、別に奇跡でも何でもない。今まで覚醒剤中毒患者状態だったから、何にもわからなかったから、ボロッと何かのレッスンで般若がはがれて、本当に神以外に何もありません、という状態になる、これが奇跡。
鏡に映された顔、鏡の中の絵が奇跡なのではない。本当の奇跡は般若の顔だった私の心の状態が、女神の心の状態になる。これが唯一の奇跡。

今度はこの鏡に魅了されるっていうことが起きることがある。自我がヨシヨシ、しめしめ、といって横領が起きたりする。「この鏡いいねえ」って。

ぶっちゃけ心のパワーでいい感じの鏡を操作するってできるんですよ。
五井昌久先生が言ってたけど、神通力みたいな感じで行者さんが空中浮遊できるようになっちゃうとか、案外できる。
でもそれは覚醒じゃない、解脱じゃないと言っていた。
何でもできることが解脱ではありません、どこでもいい関係性が築けるようになる、それが解脱ではありません。

自分と神との間の隙間が一切なくなるというのが解脱です。

神と完全に一体化する。
ああ、私は神の中にいるんだ、と、完全にそういう心の状態になったら、
それが解脱ですって。
だから鏡に映し出された何らかの絵がいい感じかどうかはもはや関係がない。
単なる鏡だから。
最後ひとゲップみたいな感じで、脳腫瘍、末期癌、何らかの病気になって肉体を脱ぐっていう映像が鏡の中にあらわれても、もはや何の関係もない。
鏡の中の何かが私ではないから。

私は神の中にいる完全なキリストであり、神そのものなんだ、神と一つってことは神と同じだよね、その認識なので、この鏡の中でイエスが十字架に はりつけになったって、何の影響力もない、神の子には。

神の子は十字架に はりつけられない、体が はりつけられただけ。その体は幻想。
そこが理解し切れていないところから、「ああ、赦すとこうなるなあ」「赦すと奇跡がいくらでも起きるなあ」「聖霊は私に必要なものを何でも現してくださるんだなあ」って言いながら、段々鏡の方に魅了されていくっていう働きは、ものすごくあるっていう思いがあがってくる。

多分私、魅了されたことがあるんだろうね、相当。過去世とかで。あとは魅了されていって堕ちていく、神と一つになっていこうとした所から転落していく兄弟を多分いっぱい見たんだと思う。
そこに要注意だよって思いがものすごく上がってくる。

この間のカースティン・バクストンさんの話に異論はなく、その通りだねって思う。
ただ、一瞬でも自我に入り込ませて、聖霊と一緒という感じになってそれを理解しようとすると危ない、ということは言う必要があるっていうのは感じる。
ものすごく紙一重。
啓示体験とか神秘体験も似ていて、そこに重要性、特別性を感じようとする働きが起きる場合があるから、「心の奇跡を求めるべきですよね」とカースティンさんも言っていたけれども、私はそれと同じで、映像がどのように変わろうが、前はすごく敵対していた人だったのが、自分の味方のように、救い主のようになっていくかどうか、これもあまり重要視しない方がいいです。
それは世界に原因があるって言っちゃっているんですよね。心に原因があるんです。


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