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すべてに自分の姿を見ている/時間について/抵抗について☆奇跡講座,奇跡のコース,ACIM2016.04.04勉強会より

https://youtu.be/ZKZfMfTRReU

一生懸命生涯をかけて「全ての人にキリストを見よう、キリストを見よう」
と頑張るわけではないんですね。
まずは自分がどの位、他者を利用し、他者を抹殺しようとしているかっていう所。
公開している映像で、Aさんと私が喋っているところの映像かな。「神の使者」(ゲイリー・レナード著)で取り上げましたね。

自分がいかに他者を利用し、抹殺しようとしているか、っていう所をまずは見る必要があるんですね。
どれだけ殺害しているか、どれだけ憎悪しているのか、という所を見て、実はその他者について、他者に対して利用し抹殺しようとしている、この思いこそが、他者がいる云々関係なく、私自身の
「分離してしまった。どうしよう…という助けを求める叫び声だったんだ」というこの段階。

一回(他者を)殺害したい、「何だあいつ」っていう風に抹殺している思いを見て、その思いは実は自分自身の「助けてくれ」だったんだ、と言う風に捉えて、愛を求める叫び、愛を求め、助けを求める懇請をそこに見て、助けを求めてるんだったら、もうこれを「どうでこうで…」と正当化しようとしたり、
言い張ろうとするというのは無駄なんだ、
ということが段々段々腑に落ちてくるんですね。
ちょっとずつ。

だったらもう、この思いと一つでいる事をやめて、
一つ残らず全部、結果の世界から原因のレベル=心のレベルまで取り戻して、
一つ残らず聖霊と神に「手放したいです」と捧げていって、
「正気になりたいです」って(懇願)すると、
「何もかもが、ああ私自身の助けを求める叫び声ではないか」
という風に、段々段々、段々段々見れてくる。

一回同一化して「何やってんだよ!むかつく!」
とか、殺意とか怒りとか、わ〜っと出たとしても、
もう一回思い出す。

「わ…この私自身の憎悪の思い、怒り、苦しみ。
実は相手とか、世界とか、個のレベルの私とかは
一切関係なくて、心のレベルの私の叫び声だったんだ」
ということに気がついて、
じゃあその助けを求める声を、もう一回ちゃんと自分は捉えて受け止めていって、外に当てがい続けるのではなくて、
それを聖霊と神に捧げていくしかないなって段々段々、段々段々出来てくると、
「ああ、何もかも私の姿だったではないか」
「何もかも、私の助けを求める声だったではないか」
って、段々段々見ることが出来てくると思いますね。

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