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デイヴィッドとワプニックさんの間に違いを見ることができない。

奇跡のコース/奇跡講座で生きる! 愛を阻む障壁を超え、本当の自分を思い出そう【真我なるハート】

2018/09/07

最近、個人セッションや勉強会で頻繁に話題に上がってきたことなので、ここでもシェアします。

奇跡講座を学び実践している方たちの中で、意外に多いことの一つにこういう考えがあると思います。
(実は私がそうであった 笑)

ワプニックさんがレクチャーしていることと、
デイヴィッドがレクチャーしていることと、
ラマナ・マハルシや、パパジ、ムージがレクチャーしていることに

何か違いを見ることができる。

そういう考え、少なくないと思います。
(私も以前は完全にそういうタイプでした)

しかし私は2016年末を境に、それができなくなってきてしまいました。。。


これはおそらく、
世界の外側から全ての教えやレクチャーが来ている!と気づき

この世界の中(と思っている)レベルでそれを学び実践するとき、

「全てが方便に過ぎない。。」

という事実に気が付いたからです。

セルフエンクワイアリーも、奇跡講座も、方便なんです。神話です。


実際に神からの分離は起きていないのだから
実際のところ、赦しすら必要ないのが真の自己です。

なのだけれども、どういうわけか、夢を見ているかのような夢の作者の私がいるかのような幻想の中では、方便が必要なんですね。

何をどう見れば、ワプニックさんとデイヴィッドたちの違いが見れるのか?
どうすれば、ムージとそれらの違いを見れるのか?

その信念や解釈が、今はない状態なので、私は違いを認識することが不可能なのです。。。

ただ、違いを見ている方の言い分は理解できます。かつて、私もそうだったからです。

ただ、その記憶が消滅してしまったので、もう、なんともなりません。

一つだけ言えるのは

「違いがあるかのように見えるときは、彼らが話している言葉にフォーカスしているからですね」

と、断言できます。

私は、言葉にフォーカスすることができなくなってしまいました。
言葉そのものの奥の、内容しか、私の心に入って来ません。。。。


私は、言葉そのものを信じてはいません。

だから、ワプニックさんの言葉にしても、JACIMの加藤さんの言葉にしても、兄弟たちの言葉にしても

デイヴィッドの言葉にしても、カースティン、フランセス、ジェイソン、リサ、リッキー、エリックたちの言葉にしても

その出どころ、起源、内容、愛しか聞き取ることが不可能になりつつあります。

(もしも兄弟が自我から話すなら、それは愛を求める声、助けを求める声であることを思い出します。

愛ある想念も、愛と助けを求める懇請も、私の姿です)


ですから、もはや
彼らが音声として「声」を出しているかどうか?
日本語を話しているかどうか?英語を話しているかどうか?手話をしているかどうか?

が、全く問題ではありません。。。

なぜなら、ここは私の心の内部だからです。


ほんとうに、
まじで、
外も、世界もありません。

沈黙の中で愛が教えられています。



言葉はむしろ障壁であることがわかります。

なぜかというと
どうしても、私たちの習慣として、言葉にフォーカスするクセが残っているからです。。


ワプニックさんは、イエスの声にしたがって、いかに行動レベルで偉業をなしたことでしょう。。。

イエスは、どうしてあんなに多くの兄弟たちと接触し続け旅を続けたのでしょうか?

ヘレン・シャックマンは、一体どうやって奇跡講座を筆記できたのでしょうか???

聖霊の声をきき、従い続けたからだと私は信じています。


思い出してみてください、ヘレンの中の心の一部は筆記にどれほど抵抗していたでしょうか?

それは彼女の好みではなかったのです。
しかし、彼女の心の中のもう一方の部分はを完全に拒絶することができなかったのです。
(詳しくは書籍「天国から離れて」を読んでください)


実際のところ、日常において
私は個人的な願望で動くことがなくなってきてしまいました。

全然、好みではないことであっても、私の解釈よりも聖霊の解釈と導きに従って生きていた方が

よほど自分の幸せに直結していることを、心の底では知っているからです。

「自分が間違っていれば、自分は得をする」のです。。

T-30.1.10
今や、あなたは転換点に達したことになる。なぜなら、自分の決めたことが正しくなければ自分は得をする、という考えが浮かんだからである。
この地点に到達するまでは、あなたは自分の幸せとは「自分が正しい」ことの上に成り立つと信じ続ける。
しかし、今ではあなたは、自分が間違っていた方が自分に有利だとわかるだけの理性を獲得したのである。

奇跡講座テキスト編 30章セクション1「決断のためのルール」(中央アート出版社)


自分と思っていた自分の望みが、、、、
ことごとくほとんど全てが、、、、、、
間違っていました。

私の好みの何か、は
私が思い描いた偶像に過ぎなかった。

「世界全体」が偶像であり、「夢見る私」が偶像でした。。。

本当に、全面的に、神に従うのみ。
声に従うのみです。

それは、イエスがなさったことであり
私たちの誰にも可能なことです。

無神論者であったし、無信仰だった(と、思っていました 笑)私は
ほんとうに、信仰し始めました。

何かの宗教でも、グルでもなく、実在を信仰しはじめました。

それは、今までの人生では一度も味わったことがない莫大な幸せであり

これ以外のなに一つ私には必要ないなあ。。

ほんとうに、そう思っていて、この恩寵に感謝しています。

神を選ぶことは犠牲ではありません。

しかし、自我はそれを「犠牲を伴うことだ」と信じて疑いません。

その声は、嘘の声です。

神に従うとは、完全なる幸せなのです。


本当に、何も心配する必要がないのです。

T-30.1.15:3-6
あなたは常に、まず助言を求めなければ、何についても決定することはできない。
このことを理解するようにしなさい。そうすれば、ここにはいかなる強要もあり得ず、自由であろうとして抵抗することに根拠がないことがわかるだろう。
起こらざるを得ないことを免れるという自由はない。
そして、もしそれがあると考えているなら、あなたは間違っているに違いない。

奇跡講座テキスト編 30章セクション1「決断のためのルール」(中央アート出版社)


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