見出し画像

今までどんなに狂っていたかを認めることができるのは幸い

2019年01月01日 14時50分10秒 | ACIM奇跡のコースという生き方

どうしてこれ以上ないほどの「光栄 極まりないこと」について犠牲的な方面からしか受け止めることができなかったのかが今までの力動が 不思議に思えるどうしたら、そんなに犠牲者として自分を認識して

相手を加害者として認識できたのだろうか?


単なる概念レベルでも

訓練レベルでもなく


全く

休み無しの

リアルガチ実践レベルでこそ

あるとも思っていなかったレベルの

闇が浮上してきて

とめどなく晒されて
それらが

もうどこにも行きどころがなくなって

砕けて崩れて落ちていった感じ。


「お仕えさせていただく」

ということが

100パーセント自分自身の幸せであるということであって


「真にお仕えさせていただく」

ということは

自前の解釈を捨て去り続けるということ。
それがたとえ啓示体験レベルからの自然な想念であったとしても

なにも、自分には、真に理解することはできないのだ。

いかなる瞬間も

神に教えていただくしか方法はないのだ。




ここまでほどに

私自身が ガチ実践しなければ

誰に対しても説得力がなかっただろう。


いつも

そういうやり方で
ジーザスは私を導く。


それが常なのだけど
その役割は、

実は、

ずっとずっと以前から

「是非とも従います」と

神に返答していたのだった。


だから、こうして

私の返答に対するこたえが


神の恩寵として

やって来てくださるのだ。

これ以外のことなんて

どうでもよいこと。

取るに足らないこと。とも言えないくらい、

思い出せないくらい、どうでもいいこと。


アーメン



























おそ過ぎないうちに 神を呼び求めよ









この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?