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幻想は自分が作り上げている。血だらけのおじいちゃんも..2014年11月27日より

https://youtu.be/-9MQHHcQI2I
奇跡講座も全く同じですね。
自分が間違いなく「これ投影してるんだ、自分が作ってるんだ」って「でっち上げたのは私」ということを重々認めたところから赦さないと、なかなか…なかなか終わっていかない。
自分の中の苦しみが終わっていかない。それが言いたかったです。

血だらけのおじいちゃんの例はね、後々こうやって私も皆さんにいろんなことがあってお伝えするのに「あの時のおじいちゃん、ありがとう」って思ってます。体験させてくれてありがとうって。

その時は「おいおい」と思ったけど、こういうのを私は映し出さなければやらないんだなっていうのがわかりました。
「はいはい分かりましたよ」って泣き入りましたよ。
「わかりましたよ」って言って、これやんなかったら次どういう状態のが現れるかわからないしね。
次は、腕切り落とされちゃったみたいなのが出てきたら大変だから。
ほんと、次、私何作っちゃうかわかんない。

自分がでっちあげたんだって、で、でっちあげたとしてもでも自分も悪くないんですよね。
そこがすごい大事で「私また投影しちゃった」っていう罪がないんですよ。ただ、自分が分離したって信じているだけで。

聖霊は「それ夢だし、一個も起きてないよ」って言ってるのね。
「やっちゃってないんだよ」って言ってる、やってないんです。

投影したとしても何も罪がない、悪くはない、ただ、ただしはっきり間違ってはいる、間違ったことを選択はしている。から「それをやめます」っていう宣言することだけですね。

結局、髪の毛1本1本まで決まってるってよく言ってるけど、映像はもう1回出来上がってるので、それは変えようがないんですね。
だから、削除されることはあるけど、変えようがない。
多分、私がもっともっともっともっと前の段階で100の統合を起こしていたら、おじいちゃんが血だらけで出てくる必要はなかったのかもしれない、あそこを削除されちゃったと思うんですよ。もっともっと前の段階でね。

それが時間の削除でね、不要なシナリオは聖霊がどんどん切ってくれる。
でもまあそれを永遠に選び続けてきたので「次はこれだよ、次はこれだよ」って映像が現れ続けるわけです。
そう、で、その自我としてそれを投影してるからといってもそれは最初からあった映像で、前回までにちゃんと赦しが100起きていなければ、その映像が現れ続ける。また別個のものが似たような形として見えている場合もある。
けれど、そこにやっちゃった感は必要なくてね、
「レッスン差し出されたんですね、わかりました」これをただただ淡々と聖霊にお願いしていくだけだっていうところだけでいいですよ。

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