空きコマ

▶死って別に救済でもなんでもないんだね。
▶死ぬことは生きることから逃れることであり、いきる苦しみから逃れる行為だという点では救済だとおもうよ。自分だけが救われたいという行為。自分以外の全員を生き地獄に叩き落とす最強のコマンド。以前まで死を激推ししていた身としては、多分その側面を知ったうえで「死」を最も尊ぶべき救済だと思ってたんだよね。
▶誰も自分を救うことはできず、また幾重にも鎖をかけるような世界が大嫌いでみんなのことも本当に好きじゃなかった。お互いのことなんて最終的にはどうでもよかったんだ。救うことも救われることもこの世界にはないし、というよりみんなが自分を傷つけてくるし。憎悪と嘘と裏切りと悪意で満ちてた世界だったから何も信じられないし信じたくもない。そりゃあまあ全員道連れにしてでも死にたいよね。道連れなんてむしろラッキーだし。そんなこんなで結構本気で死を崇拝してたよ。
▶今気づいたけど、別に死って救済じゃないんだね。生きる苦しみから逃れたところで呪縛は残すし。そもそも死後の世界がないなんて証明もできないわけであって、苦しみから逃れられるかはまた別問題でしょう。たしかに生きる苦しみからは逃れられても死んだ苦しみが発生するなら結局苦しみに変わりはないのな。その苦しみを観測できないとは断言できないし。そんなもんよ。
▶あと、残された人間が苦しむの嫌だよね。苦しんでほしくない人間が3人くらい。わたしが死んだことで苦しんでしまうかもしれないし、もっと言うなら精神崩壊でも起こしたら嫌だよね。偶然でも死ってしんどいけど、必然にされたらもっとしんどいだろうね。わたしが死んでしまったって泣いてほしくないな。それならたぶん「本当は生きてたくないんだ」って言いながら公園でお茶してるほうがマシだね。言霊とは言うけど、言葉にくらい気持ちをのせないとやってけないよ。それに付き合ってもらって、そのかわり生きる。ちょうどいいと思うけど。
▶今は死に対する義務感もないし、崇拝もないし。多分多くの人がこんな感じなんだろうね。でもその代わり生の実感も失ったかな。死のそばでのみキラキラと輝く命が結構好きだったりする。だからあの頃が眩しくて羨ましいなぁとかさみしいなぁとか思う。仕方ないことを諦めること。諦観。多分わたしが大人なんて大嫌いだったのは諦めに侵されていたからだと思うよ。ほら、わたし、諦めが悪いし。諦めない、それだけで燃えていた頃はきっと青春だよ。あれが青春だなんてちょっと嫌だけど。
▶最近の話の軸が「憧憬」「諦観」にシフトしてきてるね。もう前のように炎のような話は書けないかもしれないけど、線香花火として書いていくか。そんなこんなで。では、また。

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