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マイペースでだいじょうぶ

2022年1月を皮切りに私の生活は目まぐるしく変化した。
部署異動。POOLOへの参加。人間関係の変化。
私に降り注ぐ大量の情報、誰かの言葉、自分の心の声、全部が一斉に鳴り響いて、地下鉄で換気のために開いている窓のそばに座っている時の脳の芯まで満たすような騒音を思い出した。

クォーターライフクライシスという言葉に出会ったのは社会人になって数年が経った時のことである。社会人生活にも慣れ、仕事の勝手もわかってきてなんだか毎日が単調に思えてきた中で「なんかガラッと変わりたいなあ」と何気なくボヤいた私に友人が教えてくれた言葉だ。どうやら人間は25年毎、人生の4分の1を通過する頃に停滞感を感じやすくなり、その現象をクォーターライフクライシスと呼ぶらしい。25年毎と言いつつ正確には20代後半から30代前半にかけて感じる人が多いのだそうで、その定義通り私の周りにもそれを感じている同世代の人は多かった。ただ自分が飽き性で単調な生活に耐えられないせいかと思ったが、そうではないらしい。

学生時代はその年齢になれば進学をして、大学を卒業したら就職をして、初めての仕事をこなすことに奮闘して…と正直何も考えていなくても自分は自然と前進していく。ところが、社会人になって数年、自分から行動しないと特にイベントが起きないことに気がつく。大きな変化もなく大きな進歩も感じずらいことが停滞感を生むというわけだ。この時期に結婚や出産、転職や留学などが増えるのも、そういうことらしい。この停滞感が25年毎にやってくるのだから、人生100年時代、生活に変化を生み続けるのも簡単ではない。

もともと単調な生活が苦手な私には時期も相まって変化が必要だった。それも継続的で適切な変化。
クォーターライフクライシス(長いからクォラクラとでも略したい)なるものを経験して半分転職のような異動もしたが、その変化も2年ほど経ったらまた停滞感を感じさせた。前進を感じられなくなったのもあるが、自分の望んでいる方向に進んでいないと感じていたことによる停滞感が大きいのだと思う。どうしたら変化を生むことができるか?どんな変化が必要なのか?どうやって前進していきたいのか?そんなことを悶々と考えていた。

2021年の年末にかけて部署異動の話が上がった。扱う分野が変わるので一から勉強しなければならないことも多いが、これは変化であり、前進だと思った私は快諾した。
そして同時期にPOOLOの募集を発見する。TABIPPOの存在も知らなかった私にとってどんなコミュニティなのかは想像もつかなかったが、今まで自分がいた世界ではない出会いがたくさんあるに違いなかった。こちらもまた、変化を生み、前進できると思った。

そして期待通り、変化はあった。それもここ数年で最も大きいくらいの変化。
部署異動したので職場の人間関係は大きく変わり、担当する案件は一新された。新しい分野なので最初は知らない言葉で溢れていたが、次第に話がわかってくるようになる。
POOLOに参加すると興味深い講義をたくさん受け、ワークを通して多くを考え、普段のコミュニティでは出会えないような人たちと交流することで新しい知見を得たり刺激を受けたりした。私生活の時間の使い方も合わせて変化した。

最初の2ヶ月くらいは、その刺激と目まぐるしさが気持ちよく、毎日が充実していた。この急激な変化にアドレナリンが出まくって、ずっとハイな状態だった。ジムのランニングマシンで1時間以上走り続けている時、週末の土日にそれぞれ早朝から登山とダイビングをする時、連日残業からの飲み会という流れをこなしている時、と私はこの「我に返ると止まってしまうからアドレナリンに身を任せる状態」のことをよく知っている。

ただ今思えば、これはあまりに荒療治だったのかもしれない。3ヶ月目のどこかのタイミングで「ちょっと待って」と心が呻き声を上げた。明らかに自分がこの急激な変化についていけなくなっていたし、次第に今まで喜んで享受していた新しい情報、誰かの言葉が処理し切れずにそれらはノイズになっていた。息切れして、アドレナリンが切れたのである。

アドレナリンが切れた後のことは想像するに容易い。走る足は止まるし、どっと疲労感が押し寄せて、思考も鈍くなり動けなくなって泥のように眠る。

ただ、アドレナリンが切れようが、ノイズがうるさく耳を塞ぎたくなろうが、変化や前進を求める自分は変わらない。
急激な変化による一時的な興奮はあたかも自分が新しい人間に生まれ変わったかのように感じさせてくれたが、実際には大して自分は変わっていない。
環境の大きな変化に対して自分自身も変わらなければと焦るが、おそらくキャパシティオーバーでもはやどれが自分にとって重要な情報なのかもわからなくなってくる。

POOLOで出会った仲間たちはみんな、少なくとも私の目から見て、みんな前進したり変化したりしていた。フリーランスになる人、新しく事業を始める人、留学を決めた人、世界一周に向かう人、それぞれの目標に向けて行動を開始する人と、明らかに誰がどう見ても変化し前進している人たちを横目に考える。

「一時的な刺激に酔っていただけで何も変わっていなければ進歩もしていない」
「私はただ変われた気になっていただけなのか?」
「これだけの刺激を受けてどれだけ結果になったのだろうか?」

焦りはあるが息切れした状態から元に戻ることもできず、その状態をありのまま受け止めるしかない期間が続いた。異動後の仕事の忙しさに精神も身体もいっぱいいっぱいで、回復に時間を要することは明白だった。

諦めに近い状態になった時、少し力が抜けたのか、急に今まで思ったこともないようなことが頭をよぎった。

私が望む変化や進歩は状態や結果にばかりフォーカスをしているのではないか。行動になっているか?ステータスは変わっているか?目には見えているか?誰にでもわかる変化や進歩か?と、そんな物差しでばかり測っている。
でも、その状態になるまでの根本の部分、小さな心境の変化や気づき、試行錯誤といった、わかりずらいけど大切な進歩について重要性を感じられていなかった。

そこで今までのことを思い返すのである。
本当に何も変わっていないのか?
本当に何も進歩していないのか?

そうではないと、不思議と答えはスッと出た。些細でも、今までの環境にいたら起きなかったであろう心境の変化はたくさんあったし、将来どのように自分に跳ね返るかはわからないけど興味のままに始めたこともある。形にはなっていないし、他の人と比べたらあまりに些細だけど、でも変化はしている。前進もしている。だから「変わってない」と焦せらなくていい。

どんなに些細でも自分が何かしら感じて変化していることは事実だし、それを他人と比べたところできっと意味がない。今すぐに動き始められる人は、もともと準備してきていたか、相当の覚悟があるか、もう自分と比べ物のにならないくらい行動力のある人なのだと割り切ることにした。

そう思ったらノイズの音はかなり小さくなった。地下鉄の騒音をイヤホンでノイズキャンセリングした時のように、スッと不快感が消えて、必要な音だけ聞こえるようになった気がした。

そして、この些細な変化をもって自分を認めよう、と思おうとしたこと自体が私にとっては変化であり進歩なのだった。

だからもし、同じように焦りなりを感じている人がいるのであれば、私と一緒にマイペースに行こうと言いたい。正直、まだ自分に言い聞かせている段階で、100%できているかと言われると明確なNOなのだが、でもこれが良いというのは私の心が感じている。

きっと、小さな一歩が未来の大きな前進に繋がるはずだと信じて、楽にいこう!

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