「梅津政景日記」から見る金山銀山メモ①
東京大学史料編纂所データベースの「古記録フルテキストデータベース」。
「金山」で検索をかけた結果
149~288番での検出結果あり。
検索結果で出る本文は断片的なもののため、文脈前後はわからず。
1:慶長19年(1614年)1月18日 巻/ページ 2/33
「衛殿(長谷川藤広、長崎奉行)へ参ても、金銀山之様子、右之様子に可申由、被仰付候、」
2:慶長19年2月27日 2/33
「次第之由申候、 御黒印を拝見致候ヘは、金銀共、仙北御運上と被遊付候間、我等、左兵」
3: 慶長19年3月5日 2/36
「五日、一、朝に次兵へ殿へ参、駿河にて、金銀御運上無相違納申、 御黒印罷預り候様子」
4:慶長19年3月24日 2/39
「上候分は、当正月駿府へ罷上候時分、右之金銀うけ取申候手かたさし上申候、御黒印さし」
5: 慶長19年7月11日 2/77
「子一切不存候間、如何候ノ由申上候へは、金銀之色替候共、山之しかた同前たるべく候間」
6:慶長19年7月12日 2/79
「に、右近殿へ尋申候へは、するかへ上り候金銀之目、一切不存由被仰候、内膳殿へ尋申候」
7: 慶長19年7月15日
「之限候間、曲事に被仰付候、早々罷上り、金銀山万之御算用を究、いつかたへも可罷越候」2/85
8:慶長19年12月14日
「(真崎季富)にのほせ候へと、被仰遣候、金銀の様子は、御登の時分、主馬(梅津政景)」
梅津政景とは、江戸時代の秋田藩佐竹家の家老であり、この「梅津政景日記」は江戸時代初期秋田藩の藩政を知れる重要な史料とされている。
そもそもとして、梅津政景自身が「院内銀山」の奉行とされているから、かの日記に「金山」の単語が検出される記事が1年に8件出るのは、少ないとも見えるかもしれないし多いと見えるかもしれない(もっとも公私にわたった記録ゆえに、金山の内容だけに限らないのである)。
秋田藩に関する金銀山といえば、この院内銀山に大葛銀山、更に伝説上の扱いとして長慶銀山であろうか。
どちらにせよ、この慶長19年(1614年)における「金山」で検出された記事に見える「 御黒印」「長谷川奉行」「駿府(大御所徳川家康の御座所)」といったワードを見るだけでも、この秋田藩の金銀山経営が江戸初期の幕閣ら(近習出頭人ら)のコントロール下に置かれているのは間違いなく、それを見るに江戸幕府が重要視する財源であったことが想像できる。
もとより、佐竹氏は常陸国に所領を持っていた戦国時代より、武田氏の甲州金山と比較される金山経営を行っていたことが知られる。豊臣政権下では経営を任されながらも豊臣政権の直轄飛地の金山となっていたようだが、そういったノウハウが江戸幕府政権下でも生きていたように見られる。
実際その後、
江戸時代後期にも秋田藩鋳造の秋田銀判、笹一分銀などといったものは現在でもオークションで販売されている(一分金なども確認される)。
戦国~江戸時代の金銀といえば、1に甲州金、2に中国地方の石見銀山といったように注目されがちであるものの、佐竹氏の金銀経営も面白いように感じる。
「梅津政景日記」を題材に金山銀山経営に関して論じたものは
ciniiで見つかるものだとこれらであろうか。
ciniiだと、検索の仕方が悪いのか、戦国期の佐竹氏の金山銀山経営に関して論じたものが見えないように見える(ここ数年ciniiの検索結果出力は何か弱い気がしている)。
更には江戸時代のものもそこまで多くないように見える。ciniiでの検索結果がすべてではないが、総数が少ないとも見える。
「梅津政景日記」についても、実際のところ「武士文化」「東国文化」「政治史」といった観点で論じらている気がする。
このあたりはもう少し様々調べてみたい。
次は元和年間の「梅津政景日記」の金山について検出結果を出す予定。
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