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『“しない”という選択』をする!


成人式には参加しない!

 2023年1月9日。その日、2002年生まれの人を対象とした成人式が、地元(?)・滋賀で開催されます。
 しかし!私は、成人式に参加『“しない”という選択』をする! ことを決めた。理由は、自分を守るため!!!!!!!
 『“参加しない”なんて、わざわざ表明することでもない』と思う人もいると思うのだが…、なんせ“私”が主張しておきたくて笑。その理由についても書いた。

成人式とは何ぞや。

 そもそも成人式とは、地方自治体や企業などにより、民法で定められた20歳(2022年4月1日から18歳に変更)を迎えた「成人」を祝う恒例行事である。言い換えれば、「社会の一員として社会から認められるための慣行」であるといえる。『この日を迎えたあなたは立派な“大人”ですよ!』と。
 しかし、本来「大人」としての完熟度は個人や時代によっても差異が生まれるものである。現代において、20歳を迎える人の半分は未就職者であり、経済的・精神的にも他者に支えられている人も多い。(現行の“18歳”に関しては、高校生3年生…。)
 社会から与えられる「大人」と、個人の完熟度との間にギャップが生まれている。民俗学者の室井康成さんはこうしたギャップが『「荒れる成人式」問題を顕在化している』要因であるという。(また、一般的に「一人前」とされる根拠に“家庭を支える力”という概念が存在し、「大人」を与えることは、家制度や家父長制度の再生産にも貢献しているといえる。)
 こうした、社会が一方的に「大人」を押し付ける慣行としての側面を『成人式』はもつ。こうした成人式の社会的な意義についても、私は脳みそのなかでモヤモヤを増殖させる…。

なにから自分を守るのか。

 では、私が成人式に“参加しない”理由として挙げた『自分を守る』とは、一体『何から自分を守るのか』。それは、男と女の二元論的慣行から自分自身のアイデンティティと尊厳と権利を守るためである。
 私は、男にも女にもアイデンティティを感じない“性的マイノリティ”であり(詳しい話はまたの機会に…。)、男と女の社会において「多くの選択肢と権利」を奪われてきた。そうした環境下で自分自身を守るために。
 また、『“しない”という選択をする』ことで、私ははじめて「選択する権利」を手にすることができると信じて!

わざわざ表明する理由。

 もうひとつ。『わざわざ“しない”ことを表明する理由』とは、私にとって“参加する”ことに理由が生まれるから。
 多くの人(少なくとも私が話した母以外のすべての人)は、20歳を迎えた私に対し、『成人式なに着ていくの?』とか『成人式、誰と行くの?』とか…。“参加する”ことを前提に、“参加する”ことへの疑い/理由がない。
 しかし、私が“参加する”ためには、男と女(が前提)の社会に(自己を否定されるという)身の危険を感じるため、そもそも『なぜ参加しなければならないのか』という問いを乗り越えなければならない。そこには“参加する”ことに理由が必要になる。
 理由を考えるためには時間的・精神的負担が必要になる。そのうえ、自己のアイデンティティに対する危機を犠牲にするほどの理由など、存在するのだろうか。
(“参加しない”という選択には「理由が(必要)ない」。なぜなら、参加しなければ身の危険を感じる必要もないから。)

 では、参加“する”・“しない”という選択を行ううえで、「身の危険」以外の判断材料とは何か。それは、誘ってくれた人の存在や、母への恩返しなど…である。(溜息)
 こうした繋がりに安心や安定を見出すことで、危機を回避または不可視化(?)することができる人にとっては、先ほどの参加に対する犠牲を払う意義は成立するのかもしれない。が…私のなかでは成立することはなかった。(私は、家族といても、知り合いといても、初対面の人といても、安心や安定を感じることはないから。)

 また、“参加する”という選択に「理由の(必要)ない」人にとって、それは「当たり前」であり、それを“しない”ことに疑う余地はない。それは理解しがたいことなのである。極端だが、『“しない”人は「普通」ではない=「異常」である!』と…。
 こうして認識されることは、私にとってとても辛い…。

 私はこれらに、「悔しさ」を覚える。“参加しない”選択をした自分に対してではなく、“参加する”という選択を通して人々を“ふるい”にかける社会に対して“参加しない”という選択をする者に「普通でないという制裁」を課す社会に対して

 だから私は“しない”ことを表明する。
 “参加する”という選択をした人が、“参加しない”という選択をしなかった理由を考えながら成人式に参加することを願って。その一人ひとりが制裁を課す社会を変える“種”となることを信じて。

あ、あと自己満足。これも“わざわざ”表明する理由のひとつ。笑

『“参加する”ことで変化を起こす』ことへの抵抗

 ここまで読んでくれた人のなかには、「“参加しない”選択よりも、成人式に“参加する”ことで参加者・主催者に問題意識を共有できるのでは」と考える人もいるかもしれない。

 私が『“参加する”ことで変化を起こす』という選択をしない理由はふたつ。ひとつは、肉体的・精神的余裕がないこと。もうひとつは、「自己犠牲のうえに成り立つ変化が私の望む変化であるか」という問いに対する“私なりの答え”がそれを否定していること。

 ひとつめは単純(そのままの意)だが、ふたつめに関して補足したい。
 私は“参加する“という選択を行う際にのみ、自分が社会に否定されるという危機に直面する。したがって、“参加する”ことは、自分自身のアイデンティティ・尊厳・権利の“犠牲”のうえに成り立っているということになる。
 犠牲を払って得られる「変化」とは、“「制裁をしてはならない」という配慮”であり、“社会自体の暴力性・加害性”の根本が解消されたわけではない。(そもそも、こうした変化を起こすこと自体とても困難なことである。)また、加害の対象となる要素や環境が変われば、同じ被害が起こりうる。なぜなら加害のシステムは健在だから。
 (こうした変化はもちろん、緊急な対応としてなど効果・意義を認識したうえで…。)こうした変化は「加害のシステムを解消できなかった」だけでなく、「社会に“建前”という名の武器を与える」ことになりかねない。

 だからこそ、「自己犠牲のうえに成り立つ変化」ではなく、「社会の加害のシステムを転換させるための変化」が必要であると考える。
 よって、私は成人式に“参加しない”。そして、それを表明する。これが私の今できる最大限の抵抗だと信じている。

さいごに

 これらは、あくまで私個人が(もちろん妬み嫉みも含め)“参加しない”ために、短時間で紡いだ声であり、たくさん存在する(日本の20歳だけでも約120万)人のうちのたったひとつの声として、受け流してくれると嬉しい。

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