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気候マーチを終えて:気候危機止めるための変化、のために必要な変化とは?

2023年10月7日、私も所属する、若者主体の気候ムーブメント「Fridays For Future Kyoto (以下、FFFKyoto)」が『あなたと999人の気候マーチ 〜今年"暑すぎ"と思った人集まれ!〜』を開催。その企画プロセスで学んだことや、アクションして感じた意義などを振り返る。

この投稿では、10月7日当日のことではなく、その約1ヶ月前の準備期間中に感じたことを共有したい。


誰のための広場?

9月15日。この日は、国際的な気候ムーブメント・ネットワーク「Fridays For Future」が設定する『世界気候アクションの日』(世界気候アクションの日は、年に数回、気候危機を止めるために世界各地で同日にアクションを行う地球規模のムーブメント)である。

私はこの日に合わせて、ひとりで京都市役所前で座り込みをすることにした。
その目的と思いの詳細については、Instagramの投稿をチェックしてほしい。
要約すると、気候危機が深刻化する現在、解決には社会システムの変化が必要であり、その変化をボトムアップで実現するべく「市民」がいかに危機感を社会に伝えることができるかを実践するために行った。
(また、呼びかけを1人で行なった理由としては、FFFKyotoが9月18日「ワタシのミライ」や10月7日「あなたと999人の気候マーチ」の準備等で余力がなかったため。)

私はひとり、京都市役所前広場の真ん中の市役所正面入口前で『豊かな社会には気候の安定が欠かせない』と書かれたプラカードを持って座り込んだ。とても緊張したし、誰もいないなかで自発的に座り込むことができず…とても怖かった。あと、とても暑かった(その日の最高気温は34℃だった)。

座り込みを始めて10分。事前にSNSで告知した投稿を見て、1人の方が参加してくれた。一緒にプラカードを持って座り込んで5分後、スーツを着た市職員3人が現れる。来て早々に『ここそういうことする場所じゃないから。』と言って即刻退去を命じられた。

私は、「『世界気候アクションの日』に⁡世界各地で声を上げる同世代の人たちと連帯し、気候危機を解決したい!」との思いで、プラカードを持って静かに座っていただけだった。⁡アクションは、特定の企業、団体、個人を批判するものでもなく、ただいち市民として気候危機への危機感を社会に示すものだった。

⁡それなのに…。
海外の同世代の活動家たちが路上にペンキを塗ったり、道路を埋め尽くすような気候マーチ、電柱にチラシを貼り告知する様子をSNSで見ながら…。⁡⁡⁡(動画の多くが欧米から発信されたものであることにもモヤモヤ💭)
⁡「ここ」には、誰かの土地しかなく、公的な場所ですら何かを自由に主張・表現することのできる「余白」がないことに、とても窮屈さを感じた。⁡⁡⁡

私にとってその日のアクションの意義は、『誰でも声をあげられる場を地域でつくること』⁡だった。場所が京都市役所前であっても、直接的な訴えを行うのではなく、ただ「気候危機ってやばいよね!」と思った人が安全に安心して集まれる機会・場所を、生活している「ここ」でつくりたかった。⁡⁡

⁡それでも、その思いを実現することは出来なかった。声をかけられたときの私は「安全」とは到底感じられず。⁡職員さんの私を睨みつける目は、私を犯罪者にさせるようだった。『すいません。』と言いながら去るしか出来なかった。⁡⁡それがまた後々悔しい…。咄嗟に謝っちゃったし、余計に…。

その後、駆けつけてくれた左京区選出の市会議員である井﨑敦子さん(無所属)が、市に掛け合ってくれたが、京都市役所前広場内で行うことは叶わなかった。(結局、市役所前広場を追い出された私は、その前の交差点付近で座り込みを継続した…。)

広場を追い出された後のアクションの様子。
井崎さんも含め7名の方に参加していただきました。

確かに。誰かを傷つける内容や迷惑をかける行為を行う人たちも、実際にいるのだろう。そうした人たちへの策を講じる責任が、彼ら(市職員)にあることも理解出来る。しかし、そのようなリスクがあるからと言って、活動する市民をすべてひと括りにして、危険人物扱⁡いするのは間違っていると思う。

社会人としての“責任”に不信感

また、数日後には東京で行われた「ワタシのミライ」という気候ムーブメントに連帯する形で、京都市内でスタンディングを行った。
その際も『公道であっても通行人の迷惑になるからやめて欲しい』と言われ、退去を求められた。その時は『例外を認めるとその他すべても認めなければならなくなる。』と自らを「責任者」と名乗る男性らしき人は主張をしてきた。⁡⁡⁡⁡

⁡(その際の高圧的に感じられた「要求」には、若者の立場の弱さを痛感させられた。)⁡⁡

一緒に参加していたオーガナイザーは、それを見ていて、『責任者が"判断をしないという判断"をするのは、もはや責任者としての役割を果たせていない』と言っていた。私も同感。それはただ「無責任」な行為であり、単なる「思考停止」であると思う。⁡⁡⁡

⁡社会運動それ自体や、主催・参加者への偏見やレッテルを、当人は認識しないまま無責任な判断によって、市民や若者が声をあげる機会を奪う。私はこうした現状/社会に対し、大きな不信感を抱いた。

変化を起こすために必要な変化とは?

こうした経験によって、私は思った以上に大きな衝撃を受けていたようだ。
後に、10月7日の気候マーチの企画を進めるにあたり、当日の集合場所の利用を巡って、これらの経験を思い出しパニック発作を起こした。いつもより視界が広くなり、フワフワした感覚、手足が震え、「また睨まれ追い出されるのでは」と恐怖を感じた。(その際、電話等でサポートいただいた方には心から感謝申し上げたい。)

私が大きな不安を抱える一方で、長く京都で活動を続けてきた人たちの反応は冷静だった。「(市役所前の)広場はダメだよ。」「追い出されそうになったら、『市長の到着を待っているんです』とかわせばいい笑」。
彼らは、長年の経験から「ここまでは」という線引きが明白らしい。しかし、私は正直、彼ら自身も声を上げづらい現状を内面化してしまっているのでは、と感じた。

若者だけでなく、多くの市民はそうした裁量を知らない。経験がないなかで、いざ「声をあげよう!」と思った人にとってのリスクはあまりに大きすぎると感じた。
私は、ボトムアップで市民主体で社会システムを変えていきたい、気候危機を解決したいと思っているのだが、そのためにはまず市民が声を上げやすい環境をつくることが必要だと感じた。

運動に関わっていてよく聞くのが、『日本人は社会運動を受け入れることができるか。』という問いだ。しかし、私はそれ以前に『日本は多様な社会運動を受け入れる状態にあるか。』と問うべきだと思う。
市民が声の上げやすい環境が整っていない現状では、多様な表現の可能性は削ぎ落とされ、ステレオタイプな「運動」を再生産してしまっていると感じる。
そのような現状では、運動を拡大し展開させていくことは困難だろう。

気候危機にはタイムリミットがある。
私たちは、市民の声のあげやすさを追求しつつ、同時並行で気候危機への関心を広め、変化を起こしていかなければならない。

10月7日のアクションに向けて

⁡短期間におけるこれらの経験により、⁡私は主催者として、アクション参加者に対し『安心してご参加ください!』とは言えないと感じた。安全・安心でない環境が現実であり、私たちは互いにケアし合いながら、気候危機だけでなく、市民が声をあげづらい社会に対しても取り組んで行かなければならないのだと感じた。⁡

⁡それは、私が行動して学んだことだ。
だからこそ、今後自分が主催するアクションには細心の注意を払いたい。⁡
⁡初めて参加する人のリスクも考えて、なるべくリスクを軽減させるための対策を事前に行い、事後のケアもできるよう、できる限り努めたい。⁡

⁡⁡⁡そして、同時に知って欲しい。

⁡⁡⁡声を上げること自体が悪いことでも、間違ったことでも、無駄なことでもなく、必要なことなのだということを。また、今当たり前に住んでいるこの社会も、たくさんの人の声によってつくられた過程(プロセス)があるということを。⁡⁡⁡

10月7日の『あなたと999人の気候マーチ』では、そうした思いを共有・実感できるアクションにしたい。そんな思いを抱き、準備を進めるのであった…。(つづく笑)

※ 最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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