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就活の波

就活の波がやってくる…。

心がザワザワ。

学内の就活支援相談室に行き、「スーツって着ないとダメですか?着ていかなくても面接は受けさせてもらえますか?」と聞くと、「着てください。」と即答。…にモヤモヤ💭

バイト先のスタッフからも、「スーツを着ることが目的ではなくて、身なりを整えて赴くのが礼儀だから。そんなに気にしなくても、その時だけ我慢すれば…。」…にモヤモヤ💭

同世代からの「私たちは、職業を選択できるという恵まれた環境にいて、(スーツどうこうとかではなくて、)その特権を持つものとしていかに就活を頑張るかが重要なんじゃない?」…にモヤモヤ💭

また、知り合いの方の「そんなに嫌なら、着なくていいと思う。今の時代、そういう配慮のある会社もあるんじゃない?」…にもモヤモヤ💭

モヤモヤ💭モヤモヤ💭💭モヤモヤ💭💭💭
(「モヤモヤ」って柔らかい雰囲気だけど、実際は「グサグサ」刺さってきて、今すぐに逃げ出したいくらい苦しいのですが笑)

以前、「『“しない”という選択』をする!」というnoteでの投稿で、成人式への不参加の理由を書いたとき。同じようなモヤモヤ💭を感じていた。
でも、その時と大きく違うのは「就活を避けることで受けるリスク」を私自身が大きいと感じていること。

ここまで、親のおかげでお金に困らずに生活できていた私だが、その貯金(+3年間のバイト代)も大学4年間の授業料で底をつく。
卒業後は「働かなければならない」ため、就活を避けるリスクは非常に大きいと感じてしまう。

就活から抜け出せないとなると「“しない”という選択」肢がなくなるため、再び「なぜ私はスーツを着たくないのか?」という問いへの答えが、私自身のなかで必要になってくる。

私個人の感覚としては、「スーツを着るくらいなら死んだ方がマシ」と思っている。それは、大きな社会規範のなかで、自身が飲み込まれる恐怖があるから。
その感覚をもとに、理由を考えてみる。

「飲み込まれる」というのは、現実逃避のための単なる妄想話ではなく、今までの経験から「予測」できること。
幼い頃から、性的マイノリティにアイデンティティを抱く私は、社会で蔓延する男性規範に乗っかりきれず、マッチョな思想に抵抗感があるため、男性コミュニティから常に疎外を受けてきた経験がある。そんな私にとってスーツとは、排外的な社会の象徴。

そして、私がスーツを着るということは、男性規範に支えられたマッチョな男性コミュニティの常識を内面化し、疎外を正当化する社会に溶け込むということ(できればの話ですが笑)。
それは、私にとって「自殺行為」になる。
だから、「スーツを着るくらいなら死んだ方がマシ」なのは、自身のアイデンティティを否定され、生き地獄を生き続けることを選ぶ辛さを想像できるからこその言葉。
そうした一部の人にとって「妄想」、「わがまま」と捉える思考は、私が過去の経験から身につけた危機回避のための思考のひとつなんだと。

そうした意識を前提で、もう一度。

就活支援相談室のスタッフの方の「着てください」や、バイト先の方の「我慢」、同世代に言われた「特権」は、私にとって過去の経験から得る「予測」を無いものにし、「就活」という異様で独特な文化へと引きずりこむ誘惑であり、問題の解決には繋がらないのである。(もちろん、皆さんのお心遣いには感謝しておりますが…。)

そして、最後の「着たくなければ着なくて良い」は、一見優しさを感じとても心が軽くなる一方で、実際にその選択をすることは難しいため「じゃあ、結局どうすればいいの!」に再度陥ってしまう。また「部外者は外部(あるべき場所)へ」といったロジックで、男性コミュニティの疎外(外部化)を正当化する言葉としても捉えられるため、やはり私にとっては何の意味も持たない…。(もちろん!皆さんのお心遣いには感謝しておりますが…(2回目)。マジで。)

「就活」とは、それほど社会規範によって武装され、また正当化された「文化」であり、とても大きな加害性を帯びている。(と感じる。)

とはいえ、私1人で変化を起こせるわけもなく…。
なんの違和感も感じず、スーツを着て「就活」に飲み込まれる人たちを見ながら、その中で苦しむ姿さえも羨ましく思い、やりたいことよりも「就活文化」を前に何もしない/できない自分に失望しながら…。

これからも、全力でもがき続けていきます笑

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