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晩翠怪談 第26回 「ありえないもの」「盆の災難」「呼び声」

割引あり

 
■ありえないもの

 治部さんが秋の行楽シーズンに、彼女と地方の温泉旅館へ出かけた時のこと。
 予約したのは、ふたり用の和室だった。窓から見える渓流と山並みの風景が美しい。

 部屋の設えも立派だったが、ひとつだけ大きな問題があった。
 部屋の一角に当たる長押に、遺影とおぼしき写真が立て掛けられている。
 白髪を昔風に結いあげた、老婆の白黒写真である。首から下には和装の黒い着物が写っている。

「これって遺影だよね?」
 彼女の見立ても同じだった。どう見ても遺影である。
 遺影の老婆は薄く開いた口から歯を覗かせ、不気味な笑みを浮かべてこちらを見おろしていた。一度目に留まると、嫌でも意識してしまう。背中を向けると、見られているような感じもした。
 老婆の素性は不明だったし、不明であればなおのこと、こんな写真と一緒に過ごす義理はない。電話でフロントに苦情を入れることにした。

 まもなく通話に応じたスタッフに事情を伝え始める。ところが相手の反応は妙だった。
「そんな写真は知りません」と言う。
 だが、知らないという割に、老婆の顔立ちや年頃については、やたらとくわしく尋ねてくるし、こちらの返答に対して「ああ」だの「うう」だの、いかにも知っているようなそぶりを臭わせる。

「とにかく、あるものはあるんですから、なんとかしてもらえませんか?」 
 言いながら、遺影のほうへ振り返る。
 ない。
 長押に掛かっていた老婆の遺影は、跡形もなく消え失せていた。
 電話をしている間、彼女はずっと隣にいた。彼女に遺影を外すことなどできない。
 一応訊いてはみたが、やはり「知らない」と言われた。代わりに声をあげて泣かれてしまう。
 通話を終えたあと、部屋じゅうを血眼になって探してみたが、遺影は結局見つからなかった。

 事情が呑みこめぬまま、得体の知れない恐ろしさだけが募り、部屋を変えてもらうことにする。再びフロントに電話をかけてお願いすると、あっさり要望は通ってしまった。
 事情は説明されないまま、元のふたり部屋より一層豪華な部屋をあてがわれたそうである。

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