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晩翠怪談 第27回 「場違い」「万華鏡」「残滓」

割引あり

■場違い

 晩秋の休日、赤根さんが宮城県南部のとある山中へ藪漕ぎに出掛けた時のこと。
 朝の早い時間に山へ入り、登山道を逸れて荒々しく繁茂する藪の中を進み始めた。
 初めて歩く山だったが、登山歴はそこそこ長く、藪漕ぎの経験も相応にある。慣れた手つきで眼前に生い茂る葉を掻き分け、山の奥へと向かって進んでいく。

 順調に歩を進め、やがて二時間近くが経った頃である。
 進行方向から少し離れた前方の葉が、俄かにざわざわと音を立てて揺れだすのが目に入った。
 音の雰囲気から察して、自分と同じ登山者の可能性が高かったが、熊ということも考えられる。その場に立ち止まり、葉を打ち揺らす主の出方をうかがい始めた。
 ところがまもなく藪の中から姿を現したのは、登山者でもなければ熊でもなかった。

 灰色の背広を着こんだ、中年男である。頭はバーコード状に禿げている。
 男はこちらと目が合うなり、にっと笑って「おや、こんにちは」と声をかけてきた。
 とっさに「こんにちは」と返しはしたが、なんとも知れない妙な心地に陥ってしまう。

 この日は快晴だったが、季節は秋の深い頃である。山の空気は下界のそれより、一段と肌寒い。赤根さんは厚手の上着を羽織っているのに、背広姿のこの男は外套を身に着けていなかった。
 それに加えて不審な点がもうひとつ。男は今の今まで鬱蒼とした藪を掻き分けて来ただろうに、背広の生地はいやに小綺麗で、葉っぱの欠片や土埃の一粒すら、付着しているのが見当たらない。

 男は開いた片手を軽く持ちあげ、「失敬」と言いながら赤根さんのすぐ脇を通り過ぎて行った。背後でがさがさと葉の鳴る音が響き始める。
 狐に摘ままれたような気持ちで振り返ると、音がぴたりと鳴り止んでしまった。
「え?」と声をあげつつ男の姿を探し回ったが、姿はおろか、気配すらも感じることができない。どこかにいなくなったというより、消えたと判じるほうが理に適う、それは一瞬の出来事だった。蒼ざめながら、その場にしばらく立ち尽くすことになる。

 以後も登山と藪漕ぎは変わらず続けているのだが、得体の知れない男と出くわした同じ山には二度と足を向けることはないとのことだった。

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