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尾中友哉さん (しんびじVOL 38)

沼田:スーパーイノベーター
花梨:MCさん
尾中:レジェンドゲスト

沼田:しんびじオンライン今夜も始まりました!VOL.38!1つのことを38回もやったことがないので本当にワクワクドキドキいつ終わるんだろう。。と言う気持ちがしています、スーパーイノベーター沼田です。こんばんは。早速ですが今日のレジェンドゲストを紹介しましょうかね。

沼田:シンビジオンライン

沼田:今夜のレジェンドゲストはサイレントボイスの尾中友哉さんです。こんばんは。今日はお越しいただきありがとうございます。それでは今夜のレジェンドゲスト尾中さんのご経歴を花梨さんに読んでいただきたいと思います。

尾中さんのご経歴

平成元年生まれ、滋賀県大津市出身。聴覚障害者の両親を持つ耳の聞こえる子ども(CODA)として、手話を第一言語に育つ。 大学卒業後は東京の大手広告代理店に入社します。2014年より、DEAF特有の「コミュニケーションの壁を乗り越える力」を実践的に習得する企業向け研修プログラム「DENSHIN」を提供開始。2017年には教育分野へも参入し、ろう・難聴児向けの総合学習塾「デフアカデミー」を創設。教育・就労という二大テーマについて「DEAFと社会の関係性を変える」ビジネスを創出・展開しつつ、自治体の委員や企業のダイバーシティ事業部などへ相談役として参画。 また、社会起業家として、ニュース番組のコメンテーターやビジネスコンテストの審査員を務めるなど、幅広く活動を展開。

沼田:最初のコーナーはですね、尾中さんの半生をお伺いしましょう。ということで生まれは滋賀県ですか?

尾中:はい滋賀県ですね

沼田:どんなお子さんだったんでしょう?

尾中:なんかみんなに提案したり、いろんな遊び考えてやろうぜみたいな。あだ名を考えたり。僕が考えたあだ名を使ってる人が多かったですね。

花梨:え〜どういうあだ名をつけられたんですか?

尾中:松本とかだったらまっちゃんとかだったりするじゃないですか。

沼田:はいはいはい。

尾中:名前から遠いあだなとか多分それぞれあると思うんですが、多分そういうのをつけてたと思うんですよね。なんか言い当てているようなあだ名って結構定着するじゃないですか。そういうのにただ喜びを感じる人でした。

沼田:早速コピーライティング的な才能が発揮されていたんですね


尾中:なんかそういう感じでしたね、人の表情を気にするみたいなところがあって。

沼田:学校の中では運動とかされてたんですか?

尾中:中学の頃は勉強ができたっていうのがあって。スポーツは小学校の時に野球を始めたんですけど、選択が自分軸じゃなくて相手軸で。サッカー部のナオト君と野球部のマサシ君にじゃんけんしてもらってどっち入るか決めるみたいな感じで。マサシ君が勝って(自分が)野球部入ることになったんですけど、1年ちょっと位やったら僕はもうみんなみたいにプロ目指せないので辞めますみたいな。退職届みたいなのを監督に出すっていう。そんなん気軽に辞めてもいいんやけど真面目に書きすぎてっていうのはありました。

花梨:やるならちゃんとやってプロまで目指さないとみたいな気持ちがあったってことですか?

尾中:なんか辞めたぞあいつ!根性じゃないぞ!みたいなのが怖くて。ちゃんと考えて俺は辞めてんねんみたいな。別に俺は野球選手みたいなお金持ちの暮らしがしたい訳じゃないし、僕は普通の生活が幸せだからもう土日は家族のことを大事にしたいみたいな趣旨のやつを真面目に書いてたと思うんです。

沼田:へーおもしろーい!

尾中:理由はちゃんとしてないと言われてしまうなみたいなのがあったと思うんですよ。

花梨:それが小学校ですよね?

尾中:それ小学校4年生とか5年生だったと思います。

沼田:責任感があったみたいな感じですか?

尾中:責任感が、多分僕の生まれ育ちの特徴に結びついてるんじゃないかなと。すごい思うのは、やっぱり紹介の時にもあった両親が耳が聞こえないということで。日本語の発達がまず遅れたっていうのは、家族の外部との付き合いみたいなのが少し難しかったからなんですけど。僕は日本語できて手話もできるので通訳になれるわけじゃないですか親の。
そしたらもう何か”小さなお父さん”て基本呼ばれるようになって、家族の先頭歩いて外食なら注文やるし、”マーボードーフこういう理由で遅れるから!”みたいなこと言っていたし、言わなきゃいけないみたいな。言わなきゃ家族が恥かくから、チームにとってマイナスだから。頑張らなきゃ、みたいな。長男だったのでそういうのは根っこに持っていたと思いますね。そういうのを当たり前として過ごしてきているんで。結構大きくなってからヤングケアラー問題とかぱっと見たら、結構幼少の僕みたいな経験をして悩んでいる人たちがいて。確かに僕も一歩間違っていたら悩んでいたかもしれないし、なんか両親が割と明るい人だったので、僕が家族に貢献したらめいっぱい抱きしめてくれたり、代わりのことをしてくれることがあって。そういうことでバランスが取れていたのかな、と大人になってから考えるんですけど。

花梨:家族に頼られるのも嬉しいし自分も頑張れみたいなー?

尾中:そういう結構前向きな気持ちでやっていましたね、役に立ってるな俺!みたいな。

沼田:その学校の成績は良かったって言う話ですけど、学級委員長とか生徒会長とかそういうクラスでも前へ前へって言う感じでしたか?

尾中:そうですね。まぁ小学校の時は学級委員委員長には僕なってまして。規律とか礼とか言うだけでしたけど。

沼田:中高生は、どんな感じだったんですか?

尾中:モテたくて。でも中学の時にまたスポーツやめるっていう経験をするんですよね。野球をやめたしテニスも入ったんですけど、テニスも一年生の夏休みくらいから幽霊部員になっちゃって。それもみんなから視線がすごく気になって、でもモテたいレースにちゃんと参戦したいわけじゃないですか!でもスポーツじゃないし、勉強を手に取ってみたら結構できたっていうのがあって、そんなイケメンじゃないし、面白くなるにも技術がいるわけじゃないですか。優しくなるていうのは結構できる気がしたんですね。みんなの相談が受けれたり優しくなるっていう強みを出していけば、かっこいい人面白い人と一回付き合って別れた後に僕が優しい人で攻めるみたいなそういう作戦がありましたね。

花梨:じゃあ結構周りのタイプとかいろいろ見て、その中で自分はどういう立ち位置にいようみたいな!戦略的に考えられてたんですね。

尾中:かっこよく言ったら戦略的に行動していたってことですね笑

沼田:わりとそれは身を結んだんですか?

尾中:いいお父さんになりそうランキング2位になったかな

花梨:スポーツはそんなに好きじゃなかったんですか?

尾中:めちゃ緊張してました。高校でラグビーやるんですけど、監督見てるかな?とか、テニスとかもペアがいてこれをやったらペアの人どう思うのかなあ?とか、多分もう常にヒップスみたいなスポーツマンやった。ほんまに。常に心理状態働いてて。っていうのはこれ幼い頃から肯定感ばっかり出てるわけですよね。だって社会的に見たら障害者の親がいて4歳とか5歳の自分が通訳して両親を助けているわけですよ。ほんま、めちゃくちゃ褒めてもらえますし街歩いていたら、クッキーとかもらってたりしたんですよ。

尾中:この子はすごいからみたいな。大人になって考えたら、なんでもらってたかってことわかるんですけど、その時って自分は何か特別な人間なんだと思うんですね。スポーツみたいなコミュニティに入ったら、別に野球いきなり上手いわけじゃないじゃないですか。そしたらなんか叩かれますよね下手やから。その時に自分が保てなかったんと思うんですよ。意識はめっちゃ保とうとするからそこにいられなくなるんですよね。

花梨:プライドが高くてそれを傷つけたくないから自分を守ってたって感じですか。

尾中:そうですね。プライドはめっちゃ高かったと思いますね。僕は大人の役に立てるんだとか常に役割がしっかりあった中で結構プライドはあったと思いますね。

花梨:大学でサークルを立ち上げたのはどういう経緯があったんですか?

尾中:なんか結局リーダーになりたいとか思ってたんですねその時に。おじいちゃんが経営者だったんですけど。ほんま、5歳ぐらいからずっと、実在するのか知らないんですけど、"アルプスの渡り鳥はリーダーがおってそのリーダーが今渡るぞって決めた時に風が吹いてしまったら群れ全員死ぬんやと、でもリーダーが今や!って飛んだときに風が落ち着いてたりとか天候がよかったら春の国に行けるんや"と。リーダーはかっこいいんやぞ大事なんやぞ、とおじいちゃんがいつも言うてたんですけど。それがすごい心に残ってて、でも俺リーダーやったことないなぁって思ってすごいスポーツへの興味もあったんですけどリーダーやってみたいなーってすごく思ってた。

花梨:それはずっと大学4年間続けられてたんですか?

尾中:そうですね1年の春にリーダーになれて。でも大学卒業するときに一番人が入ってくれて80人位やったなぁ、小さな大学の中では一番大きなサークルになってて。

沼田:社会に出てからはいかがだったんですか?その広告代理店って言う話なんですけど。

花梨:どうして広告代理店に行ったんですか?

尾中:あの情熱大陸めっちゃ好きで、中学高校とかちょっとなんか順風満帆というよりかは、悩みごとを抱えていた人間だったんですけど。高校の時に完全に勉強についていけなくなって、部活だけ行くみたいな生活をしていた時に、情けなさが募るんですよね。なんかラグビー部の仲間は朝練してる人もいて勉強して進学校だったんで予習もちゃんとしなきゃいけないんで。そもそも前日とかも勉強夜までやって朝練行って授業を受けてラグビーの練習に行く感じで。僕は自分何やってんやろとか思うし、日昼ぐらいまで寝てるんで何か自分をダメ人間と思うことがすごく簡単だったんですよね。

支えが情熱大陸でめちゃくちゃエネルギーが余ってたんですよ。でも情熱大陸の人たちを見てたらスカっとしてるんですよね。それが、自分は1番ないなと思って。アイドルも料理人も落語家もいっぱい出てくるじゃないですか。で共通点って何やろうって思ったら、自分のエネルギーをここやって決めて、全開に出しちゃってるその「気持ち」なんですよね。
自分が生まれて初めて徹夜したのが大学の映像制作の授業で、このカットをいれたらどう反応が変わるかな、とか考えてたら止まらなくなって気づいたら徹夜してたんですよ。そういう情熱大陸ファンの想いもあったので、これは絶対生きる上でのヒントやなと思って鳥肌たったんですよ。だからそれをピックアップして考えたときに自分は何かを作ってそれをみてもらって、笑ったり面白いなって見た人が思ってエネルギーが沸くから、それが購買活動に繋がっていったりしたら、マスコミっていう仕事になるんだなってわかったんで。最後テレビ局と広告代理店でテレビなんだかなーって思ったんで。広告代理店でいろんな媒体で頑張っていた感じですよ。

花梨:結構その幼い頃からわりと自己分析っていうのが得意だったんですかね。すごいなって聞いてて思いました。

尾中:いやいやなんか考えざるを得ない局面っていうのがあって。ほんまに悩んで、なんのために生きてんのかな、みたいな時期を社会人の前半過ごしたんで、今のは全部その時その時わかってたことじゃなくてその悩んだ時期に差し込んだ一筋の光的なワードですね。何か僕はもう人に自分の気持ちいツボを押してもらいたい人やったんですけど、やっぱ自己分析したら自分で自分の気持ちいツボを押せるようになるんやなって。最近はそういう考え方になっていて。まぁそんな時期もあってよかったなーって今は思ってます。

花梨:じゃあそこで広告代理店に進まれて、そこから結構ハードだったんですか?

尾中:ここはちょっと関係の方も多いと思いんで、僕の個人的な感想と体験なんですけど。やっぱりCMとか作ってもう何人でやってるかっていったら多分50人じゃなくて100人ぐらい関わってやってると思うんですけど。それがオンエアになるぞってなった時に、これめちゃくちゃ社会人としてはダメなんだけど、なんかあんまり興味を持てなかったというか、情熱大陸が遠ざかっていったんですよ。こだわれなくなったというか。この時に思ったのは、大学の時は自分で全部作ったりとかお母さんの喫茶店でお母さんから教えてもらったレシピを頑張って覚えて、練習して、食べてもらって、これやったらいけるんちゃうかと思って日曜日に出してみたときに”うまい”って言ってもらって、作るのが好きっ!!て僕思ったんですよね。なんか1人で作る作業と100人で作る作業が同じ”作る”ということだし、規模感とかも広告代理店の方がはるかに大きいわけですけど、自分に返ってくるインパクトとしてはすごい少なくなっていて。そこで仕事ってそうなんかって思ったんですよね

花梨:なんか今お話聞いていて1人で作るかみんなで作るかっていうのもそうですけど、作って渡した側の反応を見れるって言うところでCMとかよりも料理だったりした方が目の前の人の反応が見れるみたいな。そんなところがあるのかなって思いました。

尾中:そうですね。だからほんまにあらゆる仕事が新人としてあったんですけど、お台場の夏祭りがあってそこはあのフランクフルトを売る人をバックアップする仕事だったんですけど、絶対行かなくていいのにその人らに混じってフランクフルト売ってましたね。さぼってるみたいな感じなんですけど一応お客さんやし、やってきましたよって言ってね。そっちの方がなんか嬉しい感じだったんですよね多分。

花梨:そこからじゃあサイレントボイスに移るまでの話も聞かせてください

尾中:サイレントボイスにどう繋がっていったかですか。
ここに最大の悩み期みたいなのが挟まってくるんですけど。テレビ局さんとのお付き合いの仕事が多くて、僕らのスタイルとして、会食みたいな夜の飲み会が結構あったんです。僕は担当局数が多くて、平日埋まっちゃうぐらい毎日飲むみたいな感じで。ある日はもう銀座の奥の細道でゴミ箱に顔を突っ込んで寝てたんですね。二日酔いか三日酔いかもわからない状態でいたんで、ゴミ箱に顔突っ込んで寝てたら、朝方誰かが体を揺すってくれたなぁと思って。

尾中:ありがとうございますって思って起きたらカラスが僕の体を突いてて。その時にうわぁって。その時に朝焼けの空を見てたら、なんで働いてんのかなって23歳の時に思ったんですね。で、そこからなかなか答えが出なくて”なんで生きているのかな”に変わっていったんですよ。それが前向きに言うとバネがすごい縮んでいた瞬間でもあるし、その時点でいったらなんかやばい初めて死にそうみたいな。メンタルにきてるな、みたいな感じになっていて。その時に本屋さんに入ったらもうキャンプファイヤーの家入さんの本とかが背表紙光って見えるんですよ。金色の背表紙見えてて。これ読んだら俺救われるんじゃないかなぁと思ってて。そんな日々を、何のために生きているのかなぁっていう問いを背負ったまま生きていて。

尾中:でなんか戸越銀座とかに住んでたんですけど。そこに人気のお団子屋さんがあって。目当てのレモン団子を買うために列を作っていて。そこに僕も並んで進んでいくんですけど、半分まで来たら列がピタッと止まって。その時に前見たら僕は息遣いだけでわかったんですけど、1番前の人が耳が聞こえない人だったんですね。店員さんがレモン団子とみたらし団子作ったら「ラップで包みますかー!」って叫んでて、僕がスタスタ前に歩いていって聾者の人の顔を見たら。僕はなんか社会に出てお台場のジャスティンビーバーのリハーサルとか見れたり、働いてるといろんな人に出会えますが、聾者の人に出会ったことなかったなって顔見た瞬間にパッと思ったんですよ。

尾中:で、手話をするじゃないですか。その時に手話俺何年ぶりにやってるんやろうって思ったんですよね。それは解決したんですけど列の後ろに並び直しになってなんか、並び直しになるからいや理不尽やなぁおいっと思って。なんかもう通訳終わって戻ろうとしたら僕がもともといたところで人がブロックみたいなのをしてて1番後ろに並び直しになっちゃって。そんなこと思ってたらその(助けた)人がトントンって叩いてきて、そのみたらし団子が僕にくれたんですよ。そしたら鳥肌が立ってしまって。忘れてたんですよほんまに。自分が生まれながら手にしたものとか、自分が幼い頃経験してきたこととか家族っていうことを全部忘れていて、あー僕できることがあるのかなぁってその時に思ったんですよね。

尾中:それがサイレントボイスの始まりじゃないですかね。なんかおかんのお店、おかんって聞こえないんですけど。聞こえない人がカフェやるってどういうことかっていうと、お客さんがアイスコーヒーとか言っても聞こえないからぱっと反応できないんですよ。そしたら隣の常連さんが”紙に書いて渡し〜”とか言って 。おかんも助けてもらうんですよね。で、最初のほうにおかんに言ってたのは、「おかん助けてもらってたら、お客さんくつろぎに来てるんだからあかんやろ」って言ってたら、お母さんはね一回助けてもらったら2回助けるつもりでやってるからって言ってたんですよ。それすげーなって思って、凄い良い方法だなって思ったんですよ。ペイ・フォワードとか言うかもしれないですけど、この人がこの人に良いことをしたらめぐりめぐって最初に良いことをした人の所に返ってくるかもしれないっていう、すごいきれいな話があるじゃないですか。でもじゃ、自分がそうできるかっていうと僕はほんまに返ってくるっていうことを信じれないと出来ないなと思っていたんですよ。

花梨:返ってくるってわかっていないと出来ないってことですよね?

尾中:そこをなんかわかりたい。なんか勇気出ないそんな「何かをする」っていう強い行動を起こす時に返ってこないと嫌だな、みたいになってたんですけど。そのお団子屋さんに行った自分は、まず自分ができることを見つけなきゃいけない気がして、まず自分がそういう行動を起こせるような気がして。そういう社会として良いことをしたら僕から良いことが返ってくるみたいな。それを実現しようと思ったらまず自分がそうならなきゃいけないマインドがあったんで。これ耳が聞こえない両親のもとに生まれて、もし何か自分にメッセージを神様が送っているとしたら、ちゃんと向き合わなきゃなって思ったと思うんですよね。それがキーワードだけでも見えた瞬間でしたね。聞こえない人となんか似てるなっていう。

ありがとうございます、次のコーナーのお時間なので次に行きたいと思います。シンビジオンライン。

IF NOT ME WHO 

沼田:IF NOT ME WHO ということで尾中さんが抱える使命感についてお話を伺います。尾中さんにとってのIF NOT ME WHO (私がやらねば誰がやるんだ)はなんですか?

尾中:めちゃたまたまですけど、前半の話とつながるなと思って。僕は広告代理店から転職しようと思ったんですよ。最初は起業にすごい恐れを持っていましたね。まぁ社会人のそもそもひよっこだしみんな会社に入れた!!って言っている中で、俺起業したんだよって言う人が友達にもいなかったですし。貯金もなかったので、借金するのかなぁみたいな。そしたら結婚何年遅れちゃうのかな?とかそういうマイナスしか浮かんでこなかったので、転職をしていたんですね。検索ワードでいったら、”聴覚障害者”みたいな感じでそういう協会とかが多かったですね。通訳の方を派遣する仕事とか。で最後に思ったのは自分は支援者になりたいのか?って言うことで。この支援っていう定義はすごく難しいんですけど、できないことをサポートすることかなぁ(ちょっとこれは100%とは言い切れないんですけど)できないことをサポートするって言う事を僕はやりたいのかなあって思った時に、そこに多分IF NOT ME WHOがあったと思うんです。
僕って家族の中で支援者だったの?って思うわけですよ。確かに両親は電話に出られないから外に出た時じゃなくても電話番とかを僕がやらないといけないんで。営業の電話とかもかかってくるんですよね。そしたらもうきれいな声のお姉さんがお父さんに代わってくれるかなぁ?って絶対そう言いますよね。僕は”お父さんとお母さんは耳が聞こえないので、代われません。”って言うんですけど、割と滋賀ですので関西なので、このガキうまいこと断るよるなぁとか言ってバーンって切られるんですよ。それも両親にどう伝えようって思ってたんですね。そうやって両親の耳代わりになるような事はある意味普通にやっていた。まぁ道徳かもしれないし、24時間テレビ的かもしれないし、障害者を助ける健常者かもしれないんですけど、じゃぁ支援者になりたいのかなあって思ったときに、なんでそうじゃないかって思うかと言うと。僕も出来ないことがいっぱいあって、両親にかなりやってもらったから僕も育ったって言う実感を持っていた訳ですね。

ただ僕は一緒に暮らせるとか一緒に働ける、とかそういう発想だったんですよ。だからできないことをサポートするって言うよりも、出来ることっていうのはその人たちと一緒に作って、出来ることって人よりも知ってるってことだったらその情報がビジネスになるし。人よりも何かスキルがあるという事だったらそのスキルがビジネスになると思うし。聞こえる聞こえないで一緒に会社作ってそこで活躍して、こんな楽しく働いてます、みたいな会社作るって。そういう世界観を広げていくっていうのが自分らしさじゃないかなって思ってですね。かつ、自分も非常に社会課題みたいな視点で考えると、母親もカフェをやっていてすごい楽しそうにしていたんですけど。父親って耳が聞こえない人の仕事って工場が今でも多いんですけど、昔はもうほとんど工場しかない感じだったみたいで。例えば工場で大きい音が鳴る機械とかがあっても聞こえない人って聞こえないから、そんな部分でのストレスがあまりなかったりとか重宝される面もあって。父親も夢があったんですけど、そこしか働けないみたいな感じで家族を支えるために30年も働いてくれて。父親がずっと何の仕事をやっているのかって教えてくれなかったんですよ。父親の中で、コンベアが流れているライン工やったんですけど。父親は肯定できなかった理由があって、それをずっと言ってくれなかったんですね。お父さんお母さんに、聞こえるようになりたいか?みたいなことを、聞いたことがあるんですけど。お母さんは楽しそうにやってやってますから、聞こえないから旦那にも出会えたし、子供にも出会えたし、いろんな人に出会えたしお客さんにも出会えて私は聞こえないから今ハッピーなんだよっていうようなことを言ってくれて。だからなんで変わらないといけないのって言ったんですね。

でも父親は、聞こえないからこんな人生になったやから聞こえたいに決まってるだろって言うことで怒ってきたんですよ。でも両親の聴力が一緒って知ってるんですよ、息子として。だから不思議だなぁって思ったんですよ。聴覚障害みたいなこんな形は無いですけど、こういうものがあったらどこから見るかによって全然見え方が違うんだなって思って。何か今はほんとに生きるっていう中で起きてくる出来事全部そうだなって思うようになって。ただその見方で変えられる、または、見方がどう作られるのかっていうところを自分がちゃんと分析したら今の聞こえるメンバーと聞こえないメンバーでハッピーになっていけるんじゃないかなと。それを日本に広げていって、頑張りたくても頑張れない、結構信じられないんですけど今は、聞こえない人が働く職場にコンサルティングみたいな人が行くんですけど、いまだにキャリアが示されていなかったりとか、いわゆる健常者と違う昇給昇格の条件をもらっていたりとか、社内試験で資格を取らないと昇格できないんですけど、そこで受ける機会をもらえないとか。活躍の選択肢ってこんなにも少ないんだなと思っていて。で、私たちは聞こえる人と聞こえない人が本当に50%で働いているので日々いろいろな発見と、それをできるだけちゃんとして外にも伝えていけるようにやっていったら。父親の時代は、30年も40年も前ですから明らかにその時よりかはインターネットとかパソコンとかがあるわけで昔はテレビやラジオの音が聞こえなくて不便だった人が今わからないこと調べられるって言う時代に突入していて、絶対に広がるはずだって言う信念で父みたいな人がもっと社会で活躍できて生きていて良かったと思ったり、母親みたいな人がいっぱい増えていく世界観っていうのは自分が経験できてそこに見えていたんで、働きかけたいなって思うことですね。

花梨:尾中さんがそのサイレントボイスをやるっていうことに対してご両親はすごく喜んだんじゃないんですか?

尾中:何やってるかわからないんじゃないですか笑

花梨:あ〜そうなんですかぁ!

尾中:細かいこと言ってもわからないんだけど今でもそうやって手話使ったりとか、聞こえない人と接して何かやっているのは嬉しそうですね。

花梨:それをお父さんが夢を断念して職業のことを教えてくれなかったけど本当は工場で働いてたっていうのはいつ尾中さんは知ったんですか?

尾中:高校の時に僕ラグビー部だったのでドロドロでいつも帰っていたんですけど、お父さんが通学用の自転車を買ってくれていて、自転車で帰ってたんですね。帰宅中のお父さんとよくかぶっていて、その日夕立降ってたから、もう急いで玄関に自転車入れてお父さん追い抜いてお風呂に入ろうとしたら、妹が来てお父さんにそんなことさせちゃダメ!!みたいなこと言って。何してんやろう?おとんって思ったら、玄関で自転車磨いてくれてたんですよね。お父さんて、何やってる人か俺知らなかったんですけどすごいストレス満タンの人だったんで、家帰ってきて自転車を磨くなんてありえないんですよ。だから妹がお父さんをこれ以上疲れさせたらあかんって僕に言いに来てるんですね。

僕が通ってた高校にお父さんは昔行きたかったらしくて、なんか自転車磨いてるだけで、ともや(尾中さん)が行っていた高校に行ける気持ちになるって言ってくれてて。もうその言葉がすごく残ってて。泣いちゃったんですよその時に。そしたらお父さんがその日に人生について教えてくれましたね。中学から高校に移るときにともやが行っていた高校に願書出したけど、破棄されたというか。聞こえないものは聞こえない学校に行きなさいって言われて。先生になりたかった夢があったんですけど、大学も選択肢として与えてもらえなくて、求人票が来てみたら近くの工場で働くっていうしか道しかなかったという事だったんですけど。「ライン(工場)でエアコンにネジつけてるんだよ」って言われてそうなんやみたいな。まぁ、悪い事したらあかんなって思いましたね。父親が自転車磨いてる背中とか見て、中途半端に生きてたんで、これはちゃんと見つけなきゃいけないなぁって思ってきましたね。

花梨:なんか涙が出てきちゃいます、。

沼田:今日多分私38回の放送で1番口数が少なくて、あのもう胸がいっぱいですね。私自身が思うところもあって。すごく今までの辛かったこととかなんとなく不遇だったことも、全部アップデートできて前向いて毎日生きているっていう状況だと思うんですけども。何か今日たまたまなんですけど友達と話してて思ったのは、つらかった時間とかすごい圧縮されてるんですね。私15歳の時に大きな病気してほとんど何やったか覚えていないんですよ。でも今覚えていないだけでまぁまぁでも10年間辛かったよみたいな。多分辛かったよなと。私の場合はもう世を儚なんでいたので、私以外の人みんな敵だと思っていたんですね。みんな不幸になればいいと。もうすごいだからなんだろな、天変地異とか起きればいいと思ってたし。今でもちょっと台風の時はウキウキするんですけど。ちょっと違うな笑笑
何かカオスが好きなんですね私。今でもなんだかよくわからない状態が好きなんですけど、それの根っこは多分あの時のあんまりポジティブじゃない時だなって。つまり混沌とした中から自分で旗を立てるのがちょっと好きなんですね。私そういう意味ではちょっと尾中さんの話を聞いていて、すごい共感するメッセージがいっぱいあって。あと最後に感想で伝えようと思ってたんですけど、第一言語が手話だったり最初の生活が手話で、日本語っていうものが後からついてきたとおっしゃっていたんですけど、今しゃべってらっしゃるわけじゃないですか。そしてこんなにも人の胸を打つユニークな話を聞かせてくれて。だから尾中さんの手話を見てみたいなー、僕はめちゃ感動的なんだろうなって。多分よくわからないので、手話を勉強してよくわかるようになった時に、尾中さんから発せられる手話を聞いたときに、今よりも多くの感動を感じるんだろうなと思って、それを聞いてみたくなりました。

尾中:それに関していうと、第一言語って定義があって、中途半端なんですけど確か、頭の中で手話を映像的に考えてる人がいるんですよ。手話と言う言語の豊かさはと言うと、”おっきい大根がありまして”と言った時に、日本語話者だったら長くて大きいのか丸くて大きいのかわからないんですよ。でも手話言語者ってその形を身振り手振りで表せるんですよ。美術館の内装も身振り手振りで空間の奥行きを表したり大きさやその時の感情の昂りを表情で表したりすることで日本語話者よりもイメージをつかみやすくできる豊かさがあるんですよ。

で、僕には第1.5言語に手話があって、本当の気持ちの乗ってるプレゼンの時に顔と表情が動くんですよ。そこは何か自分の中に手話って言う言語があるんだなっていうのを感じますね。でもなんか手話っていう言語のレベル的に言ったら、僕第一言語手話なんですって言ったら実際に手話話者の前で手話したらあいつの手話(プププ)みたいな感じになりますよ。

花梨:へえ、あーそうなんですか!?

尾中:そうだと思います。なんか文法も何もかも違うんで。今日は天気がいいですね、とか丁寧に言ってますけど。実際、手話では、きょうのてんき。なに?はーれ!みたいな感じ。その文法っていうか語順が違いますしもう日本語の表現になっちゃってるんで「天気が晴れですね、」でも日本語の語順になっちゃうんですよ。

花梨:違うんですね手話は。


尾中:やっぱ日本語がベースにある発想の手話なんで、日本語対応手話っていうのがあるんですけど、日本手話ってのは資格的言語のリッチさと豊かさのある世界観なんですよね。


花梨:さっきのお話でデフの方が選択肢が縛られてるっていうのがもうほんとに胸がグッとなったんですけど。それはどうしていくのがいいんでしょうねって思いました。最近ですね、私国立市出身で国立駅にデフの方だけの”世界一静かなスターバックス”っていうのが出来てもう早く行きたいと思ってるんですけど。そういうのができたり、健常者が「デフの人たちから見える世界」がどんなふうに困ってるのとかそういうことを知る機会が大事だと思うんですけど、何が大事だと思いますか?


尾中:そうですねーほんと、できることにフォーカスしていくっていうことだと思いますね。できることにフォーカスするし例えば、そのスターバックスに僕はまだ行ったことないんですけど。聞こえない人とコミニケーションとって豊かだなって思うのは目を自然に合わせられるんですよ。だからすごい気持ちが感じやすい。うんだからそれって接客にどう活きてくるんだろうって。あとは出来ないことっていうのも聞こえる人ができることと、それが同じように出来るかっていったら出来ないってこともあるんですけど、そこを解決するツールってもう少なくないっていうか増えてきてますよね。

例えば今コロナとかで、結構ね、職場に手話話者にとって手話ができる人いないってなると声が100%聞こえるわけじゃないので口の形を見たりするんですよ。でもそこにはマスクがかぶさっているでしょ。だから学校とか職場で今まで通りの学びとか仕事ができなくなったって人が結構多いんですけど、でも一方でコロナで在宅勤務になってチャットが増えました、と。だから同じ職場で働いていた時よりも得られる情報が増えましたみたいな、学校で日本語を読む分には日本語が理解できたら日本語に触れているわけですね。そういうツールで人と人の間にある障害っていう意味でみていくと、ここの障壁、壊したり壁を下げていったりできるなって思いますね。

沼田:ありがとうございました。
最高のお話でしたありがとうございました。次はエンディングです、シンビジオンライン。


感想

ありがとうございました尾中さん。花梨さん感想を!

花梨:いやなんか反省しました。今日尾中さんの話を伺うということでいろいろ記事とか拝見させていただいて。その後、両親が耳が聞こえなくて自分は聞こえて。今は耳が聞こえない方々の活躍の場を広げる仕事をされているということがなんとなくちょっと短絡的にご両親がそうだからそうなったんだ!みたいな風に考えていたんですけれども、詳しくお話を伺って人が喜ぶ姿を見ているのが好きだったりリーダーをするっていうのもただ自分が目立ちたいとか自分がすごくなりたいって言うよりも、一緒にそのつながりだったりみんなに楽しんでもらうことで自分も幸せになれるみたいなそういう捉え方、考え方をされているのが今につながっているんだっていうのが。ただ生まれた環境とか言う事だけでなくて、本当に尾中さんの個性というか価値観が全てあって今に至っているということがわかって私はなんて浅はかだったんだろうと言う意味で、反省しました。本当に素敵なお話を聞かせていただいてありがとうございました。

沼田:大変僭越ながら、スーパーイノベーターからの感想を。2つあってですね、さっきも申し上げましたが。今日ほどポンコツだなと思い知らされた日はないですね。全然役に立たなくて、本当はもっと深い質問をしたり感情表現をすべきだったなとちょっとだけ反省してるんですけど。それぐらいやっぱり胸に迫りすぎて何も言えなくなってしまいますね。なので、やっぱりこんなご時世ですけど今ランキングがちょっと入れ替わって。私が今直接会いに行きたい人ランキング1位になりました!おめでとうございます!これは絶対に会うべき人だなと思いました。会わないと始まらないなと。ぜひ何か考えます!なかなか外出しずらい世の中ですが、直接会ってシェークハンドしたいなと。
ということでシンビジオンライン、尾中さんをお招きしてお送りしました。感想をお願いします。

尾中:すごく話しやすいしんびじ。もうなんか竹中さん(MC)のすごい素直な感想と、沼田さんのご講演を聞かせていただいて、その時に僕も感動を頂いて。何か言ったら感じ取ってもらえるみたいな、自分も沼田さんがどう感じてもらえるのかみたいなのが今日少しだけわかる中で話していたのかなと思うと、今日は本当に話しやすかったですね。

で今日話して僕も2つ思ったのは、1つは僕は竹中さんが浅はかでしたってさっき反省のようなことをされていたんですけど。僕は、ある意味そうだよな〜って思うし僕は聞こえるから、聞こえない人の気持ちは100%わからないし。僕ら以外の人たちを見ていたらやっぱりまだ支援者の方が多いというか、支援者が必要なので支援者が多いんですよ。でも僕は最近、聞こえない人の活躍を聞こえない人が作っていてもいいんじゃないかなと思っていて。僕の存在がもしそれをわかりにくくしているなら、僕はリーダーじゃなくてもいいんじゃないかなと柔軟に考えられるようになって。そういうビジョンを持っていたのでより強く思えたっていうのが1つ。

尾中:2つ目は工場に聞こえない人が働いている工場にコンサルを届けて、最終的に良かったって言ってもらえるのって工場内の見える化が進んだりとか社員同士が目を見て会話するようになったっていう。実は声聞こえない人が活躍できるようにと目指すんですけど職場全体のコミニケーションが活性化したりするっていうところが最後出てくるんですね。ここが僕は本当に価値があることだと思っていて。聞こえないメジャーリーガーがいて1900年ごろに引退するんですけど、名選手でその当時の審判がストライクとかボールとか声だけで言ってたからわからなかったんですね。それで審判に掛け合ってアウトとセーフのジェスチャーができたっていう。。僕はこの話聞いたときにそうだよなぁって思うんですね。なんで生まれながらに聞こえない人っているのかなとか。多様性とかダイバーシティーってなんですか?女性活躍?それもあるけど自分と違うその人がいるから自分が何かを発信したときに質問が返ってくるし、それに答えていたら自分も気づきももらえたりそもそも違いがあることが気づきや発見につながる。だから工場は見える化が進んで発展するんだっていう。こういうふうに言えることが少しずつ増えてきたんですよね。聞こえない人のためにって大きく言うんじゃなくてみんなが良くなるユニバーサルな価値をちゃんと伝えて行きたいなと。それも今日すごく強く思いました。

沼田:というわけでしんびじオンライン38回目ですね。サイレントボイスの尾中さんにお話を伺いました!

沼田:それではまたお会いしましょう。

全員:シンビジオンライン。

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