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余剰と公共空間の再配分-COVID-19と都市計画 その3


 東日本大震災の前後から、防災や復興の専門家の中では、「レジリエンス」という言葉がよく使われるようになりました。防災や復興の専門家だけの言葉ではないのですが、「回復力」「復元力」「弾力性」といった意味で使われます。要するに「どんな災害にも絶対壊れない都市」をつくることは不可能であるので、災害にあったあとに回復する力を鍛えましょう、というふうに、防災や復興の専門家の議論も変わってきたということです。

 レジリエンスがどう社会の仕組みの中に組み込まれているのか、岩手県の綾里地区というところで、東日本大震災の復興を手伝いながら考えたことがあります。細かな成果は昨年に出版した「津波のあいだ、生きられた村(鹿島出版会)」という本にまとめたのですが、そこでの考えかたは、社会の仕組みがいくつかのサブの仕組みで構成されていて、それぞれの仕組みごとにレジリエンスがどう蓄積されているのかを見てみよう、というものでした。そのサブの仕組みとは、イエ、集落、村、生業、信仰、政府、市場です。災害が一度起きると、生き延びるため、復興するために様々な資源が必要になります。綾里地区においてそれを調達し、差配する仕組みがこれらの7つでした。親戚を頼って当座をしのいだ、はイエという仕組みを使って、仮設住宅に住んだ、は政府という仕組みを使って住宅という資源を調達するということです。問題が発生すると、人はこれらの7つの仕組みを起動して、資源を調達したり、差配したりしようとします。逆に、問題の外側にいる人は、これら7つの仕組みを使って資源を送り込もうとします。それぞれの人が、どれほどたくさんの仕組みを持っているか、それぞれがどれほど合理的な仕組みを持っているかがレジリエンスに関わってきます。
 平常時にはこれらの仕組みは行儀よく、お互いをなるべく侵さないように存在し、人々は自分の意思でそれらをうまく使い分けています。そして、非常時にはこれらの仕組みが、大変だ、助けあわないといけない、と起動していきます。非常時に遠くの親戚から差し入れがきたり、欧米のキリスト教徒の寄付がキリスト教の教会を伝わってやってくることがあります。資源を出す人たちは、自分の資源が信頼できる仕組みでしっかりと届いて欲しい、そしてその仕組みを鍛えておきたいため(それは将来の自分を助けることにもつながるので)、自分が使える仕組みを通じて困っている人たちに資源を届けます。ちなみに東日本大震災のあとに、それですら不足だと考えた人たちが使っていたのが「絆」という言葉で、それまであった仕組みを使えず、でも資源を届けようと考えた時に、資源の出し手と受け手の間で暫定的に使われた魔法の言葉でした。
 私が専門とする都市計画では、伝統的には政府による資源調達や差配の仕組みだけを理解していれば大丈夫でした。都市計画はその仕組みの一部です。しかし、ここ30年はずっと民営化の時代ですので、市場による仕組みにもそこそこ詳しくなる必要があります。そして私の場合は都市計画における市民参加も専門としているので、コミュニティ(綾里でいうところの集落と村を足したもの)による仕組みにも詳しいです。この3つくらいで十分かなと考えていたこともあったのですが、東日本大震災ではその3つでは不十分で、残りの仕組みも立ち上がり、資源をパッチワークのようにつなぎ合わせて復興が行われ、そしてそれらの全てを足し合わせても不十分でした。そんなこともあって、最近の私は、イエや宗教の繋がりがどういう風に都市計画の資源を調達しうる、その仕組みをどのように鍛えておけばよいのかということに興味をもっているところでした。

 さて今回も前置きが長くなってしまいましたが、COVID-19の後にも、不足する資源を調達しようとこの調達と差配の仕組みが立ち上がりました。COVID-19の特徴は、大多数の人たちに「Stay Home」という対策を要請するものであったことです。これにより、イエの仕組み、イエは親戚関係などのもうちょっと大きい単位を指すこともあるので、イエよりも小さい、家庭の仕組みが急遽立ち上がることになりました。ちなみに、里帰りをするなとか、お祖父さんお祖母さんを訪ねるなということになったので、広い意味でのイエの仕組みは制限されました。また、おそらく町内会や自治会といったコミュニティの仕組みはほとんど立ち上がっていないと思います。もうすこしこれらの仕組みがしっかりしていたら、例えばマスクを配給する、さらには地区単位でクラスターを押さえ込むということができたはずですが、日本ではそういうふうに町内会や自治会を鍛えてこなかったので(GHQ由来の長い歴史があります)、コミュニティの仕組みはほぼ機能していないように見えます。聞くところによると、中国では「社区」がしっかり機能しているそうですし、日本でも地方にいくと消防団などが活躍している可能性はあります。

 無いものねだりをしていても仕方ないので、ともかくもまずは家庭の仕組みで何ができているのかを見ていくしかないのですが、そこで多く見られたのが、まず家庭のなかに余っている、資源の掘り起こしとその再編成です。わたしのSNSのお友達は、職業柄、建築や都市計画の人たちが多いのですが、「玄関を改造して自分の居場所をつくりました」とか「祖母の形見の裁縫デスクをリノベーションして自分の机にしました」というようなことをしている人がたくさんいました。こういう、余っていたけど何となく放置されていた資源を「余剰」と呼ぶことにしましょう。家庭という仕組みの中にある余剰が掘り起こされ、再起動され、家庭の中に再配分されている、ということが起きているのです(ちなみにトップ画像は我が家の家庭の都市計画です)。しかし余剰がたくさんあった家庭とそうでない家庭があるでしょう、そして余剰を掘り起こすのがうまい家庭とそうでない家庭があるでしょう。
 玄関にせよ、祖母の形見のデスクにせよ、管理のコストはゼロではなく、余剰は普段は無駄ととららえられており、それは常に合理化の力学にさらされています。例えば2014年に空家対策の特措法ができ、空き家が一気に「社会問題」として捉えられるようになりましたが、空き家に「負動産」と、おっさんの駄洒落みたいなネガティブな名前をつけ、合理化せんかい、という流れが強くありました。しかし、おそらく家庭での余剰の掘り起こしが進んだいま、その価値を反転させた家庭も少なくないと思います。家庭の中で社会的距離を取らなくいけなくなったとき(政府があてにならないとき)、空き家があるということは大変にアドバンテージなわけです。
 社会がとても安定していて、予測可能な来年が、5年後が、10年後が待っているのであれば、余剰はなるべく捨てるほうが賢いのですが、予測がつかない状態にあるときは、余剰はなるべく持っておいた方がいい。それを普段使っている複数の調達と差配の仕組みの中にそれぞれもっておくとよい。それがレジリエンスということです。

 都市計画としてやるべきことを整理しておきます。まず都市計画として必要なことは、「余剰の読み込み」です。人々が自分の身の回りを、自分が持っている「調達の仕組み」を使って、どのように再構成できるか。主に家庭の仕組みを使ってどのように再構成できているか。調査ができていないので割合はわかりませんが、多くの人たちは現時点ではこれだけで何とかなっているんじゃないかと思っています。身の回りの都市計画、家庭の都市計画、家庭の都市再生ですね。余剰に気付いていない人や、その掘り起こし方や活用の仕方が分からない人も多いので、その知恵をたくさん共有することが、都市計画の専門家の役割です。そうすると、私たちが長い時間かけて作りだげてきた、そして現在もそこに最大の投資をしている政府の都市計画の仕組みを無駄遣いしないで済むことになります。

 しかし、余剰の再編成なんてことができるのは、余裕のある、私のようなゆっくりとした緊張感のなかにいる人ばかりです。その1で述べた通り、COVID-19は、ごく一部の大変に緊張したコアと、大部分のゆっくりとした緊張感のある外周という形であらわれることが特徴です。ですから、次に大事なことは、「困っている人たち」のことを考えることです。医療、流通などにかかるキーワーカーと呼ばれる人たち、あるいは仕事が激減してしまった人たちです。必要な資源を配分していくことが都市計画ですので、自分が持っている仕組みを使って、どう都市計画ができるのか。
 まずできることは、自分の持っている調達の仕組みを起動して、その先に連なっている困っている人たちに、余剰を届けることです。しかし現時点でまだそれが起動し切った状態にはないと思います。私がせいぜいできたことは、市場の仕組み(孫正義が立ち上げた)をつかって、寄付金を届けることくらいで、あとはもし私の家庭の仕組みには医療従事者がつながっていたら、あれこれ資源を送り込めるかもしれませんという程度のことです。手当たり次第出会った人を助ける「絆」モードもまだ起動していません。どのように仕組みが起動するのかは、つまるところ危機の規模や種類にもよるので、この辺がどう起動するのか、まだわからないです。
 しかし、現時点で立ち上がっている都市計画の仕組み=家庭の都市計画だけでは、困っている人たちを助けることが出来ないように思います。家庭でDIYを楽しんでいるうちに、困っている人たちが知らないところでバタバタと倒れているような状況は我慢なりません。そこで、いよいよ政府の都市計画をどう使っていくか、ということになります。
 私たちは政府という仕組みをつかって、暮らしを支えるための公共の空間を作ってきました。公共空間は作られた時は特定の目的をもって作られるのですが、その目的が達成されたり消えてしまった時に、余剰の空間として都市に残り続けます。使われなくなった児童公園とか、妙に豪華な市民ホールなどです。延々とニーズが残り続けるほうが珍しいので、都市には余剰の公共空間がたくさんあります。政府の都市計画を使って出来ることの一つは、困っている人たちを助けるために、この余剰の公共空間を差配することではないかと思います。
 例えば飲食店にとって社会的距離を確保するために席数を減らすということは、その分の売り上げの減少と相関します。その減った席数の空間を、例えば飲食店の周辺にある公共空間を使えるようにすることでカバーする。あるいは廃校になった小学校の体育館を、流通のロジスティックスの空間として開放する、病院の近辺の公共用地を密度を下げるために開放する・・など、出来ることはたくさんありそうです。
 公共空間の余剰は空き家のようにやはり合理化の波に晒し続けられ、その再生の取り組みもこの10年ほどで随分と進んできました。例えば公共施設等総合管理計画という計画の仕組みができており、公共施設の横断的な台帳がつくられたりしていました。これは偶然のタイミングではありますが、公共空間の余剰を数え切り、あれこれと活用を試していたタイミングで起こったのが、COVID-19の危機です。公共空間の再配分をするときに、利用権の設定のしかた、ステークホルダーとの合意形成などの技術が必要になってきますが、それをこなすだけの技術力をもつ地方政府も多くあるず。けっこういけるんじゃないかと楽観的に考えています。

 と調子にのって書いていたら、えらく長くなったので、今日はここまでにしておきます。

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