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社会問題を考える

僕は社会問題に関心があります。
僕だけじゃなく最近の若者、いわゆる「意識高い系」はそういう傾向が強くみられます。

ジェンダー問題しかり、教育問題しかり。

昔の若者は関心がなかったかと言われるとわからないので、最近の若者というよりはただ単に大学生とはそういうお年頃なのかもしれません。

とにかく、社会問題に関心があることは決して悪いことではありません。
それが「意識高い系」と揶揄されることは気に食わないし、「お前らが意識低い系なだけだろ」と言い返したくもなります。

なので、社会問題とはなんなのか、社会問題に関心を持つことはどんな意味を持つのか、知ってもらうためにこの記事を書きます。

最後まで読んでくれると嬉しいです。

きっかけ

僕が社会問題に関心を持ったきっかけは多分、2つあります。

1つ目はジェンダー。

小学2年生の時のクラスメイトで男の子なのに女の子とばかり遊んでいる子がいました。
まだまだ幼稚だった僕たちはそんな彼を「おかま〜」とからかってました。

ある日それが大問題となり、彼と彼をからかっていた僕ともう1人、そして先生と僕らの保護者も交えて話し合いをしました。

この時に何を言われたかは今はもう忘れてしまったけれど、とても反省して彼に謝ったことは憶えています。

結果的に、彼はたまたま女の子の友達が多かっただけで、心が女の子というわけではなかったのだと思います。
(未だにカミングアウトできていないだけかもしれませんが)

その後は仲良くなって家に遊びに行ったことも何度かあるし、何の縁かこの時の3人は現在同じ大学に通っています。笑

これを機に僕は、まだジェンダーという言葉すら知らなかったけれど、心と体の性別は必ずしも一致しないのだと強く意識するようになりました。

2つ目はいじめ。

僕の幼馴染はいじめられていました。

小学校の大半を保健室で過ごして、高学年になると教室に顔を出すことはほとんどありませんでした。

僕がそれを本当にいけないことだと気づいたのは小学5年生の時です。

当時の先生は学級活動の時間に、各班でグループを組んでその中のじゃんけんで負けた子をわざと仲間はずれにするゲームを僕らにやらせました。

普通に和気藹々とゲームをしていた僕らでしたが、「これがあなたたちがやっているいじめです」と先生に言われた時、途端に罪悪感が芽生えました。

いじめられていた子は結局中学生になっても教室に来れず、3年生になる前に他の中学校に転校してしまいました。

本当に自分の無力さを呪ったし、5年生になるまで僕自身いじめに加担していたのが情けない。

「いじめ」っていう現象そのものは大学生になると綺麗さっぱりなくなります。
でもいじめはいけないことだというのはいつまでも忘れないし、許せない。

この経験を通して、人の心を傷つける行為がどんなに愚かで下劣なことかを知りました。

社会問題とは

僕が一番社会問題に触れる機会が多いのは、Twitterです。

はるかぜちゃんこと春名風花さん(もうTwitterの妖精は辞めてしまったそうですが)や、丸山ほだか議員と一悶着あったなうちゃん氏など、Twitterには社会問題と戦ういろんな方がいます。

彼ら(彼女ら)に共通する点は、「人の心」の話をしていること。

社会問題とは、基本的に感情論です。
だからこそ多くの人から関心を寄せられるのかもしれませんが。

理系分野のように予め決まっている現象を検証・発展させるような問題ではなく、(素人間では)感情的な議論になることがほとんどです。

もちろん社会学や政治学等の社会科学系の学問に見られるように、論理的に議論が展開していくこともあります。

しかしやはり世の中の大きな流れとしては、学問に頼らない感情論が主流であり、ウケがいい。

感情論とは言ってしまえば暴論で、エビデンスなんて存在しないし、人によって受け取り方は違っていて答えもありません。

そこにとりあえずの答えを与えるのが社会科学なのではないか、と僕は認識しています。

社会問題を考える意義

では、答えのない社会問題を議論することには意味があるのでしょうか。

僕のまじめなツイートにリプライをくれる方がちらほらいます。

僕はリプライにはなるべく返事をして議論したいと思っているのですが、どうにも議論にならない時があります。

例えばある社会問題についての議論が始まったとして、「この問題の原因は〇〇がちゃんとしてないからだ!」というようなリプライが来ても正直困ります。

「それおれに言うこと?」と思ってしまいます。

こういう議論にはあんまり意味がありません。
もはや議論じゃなくて一方的に価値観を押し付けているだけです。

1つの主張として然るべき相手に対して発信することは良いことですが、僕のような一ツイッタラーに対してそれはどうなの、、

と、ここまでは意味のない「社会問題を考える」です。

さっきも書いたとおり、社会問題とは「人の心」を考えること。

誰かが心を痛めたり辛い思いをしていることが「問題」なのです。

それを解決するための建設的な議論というのはやはり優しさと慈悲深さを持ち合わせた議論でなければなりません。

お互いが手を取り合って協力して、助けが必要な人を救う。

「人の心」を考える。

答えのない問題に対して考える力・受け入れる力を養う。

それこそが「社会問題を考える」意義なんじゃないかなぁ。

みんなが真に「社会問題を考える」ことができれば、世界は幸せになると僕は信じてます。

以上です。
お付き合いありがとうございました。

サポートがあればすぐ次書きます!!