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愛がなければ視えない

こんにちは、しんです。

今回は「愛がなければ視えない」について考えたいと思います。

この言葉、ある作品で一つのテーマとして扱われていた言葉なので、聞いたことある人もいるかもしれません。

その作品について簡単に説明すると、いわゆるミステリーなんですが、かなりファンタジー色が強いです。

魔女が住むと言われる孤島に集まった一族が次々と殺される事件が発生して、主人公がその謎を解く話です。

ファンタジー色というのは、実はこの作品には非現実的な描写が数多くあります。

実際に魔女や悪魔が登場したり、同じ時間が繰り返されたり、繰り返される時間を世界の外側から観測する者がいたり。

主人公は連続殺人の犯人が一族の誰かだと主張し、魔女はそれが自分の魔法による仕業だと主張します。

繰り返される世界の中で主人公と魔女の論理バトルみたいな感じでストーリーが進んでいくのですが、この魔女の魔法というのが、「愛がなければ視えない」というわけです。

この作品について詳しくは書かないので、気になる人は是非「愛がなければ視えない」でググってみてください。
あえて作品のタイトルは書きません。笑

『視』えない

「愛がなければ視えない」には「視えない」という字が使われています。

辞書的な意味では、「じっと注視すること」を強調するときに使われる言葉だそうです。

「愛なんかあるから、ありもしないものが、視えてしまう」というセリフも作品には出てきます。

僕はこの「視える」の意味を、「それしか目に入らない」ことだと思います。

もうちょっとわかりやすい言葉で言うと「信じること」です。

悪く言えば盲信、良く言えば敬信。

子どもに手品で飴玉を出してあげたとして、それが魔法のおかげだよと教えればその子どもは魔法を信じます。
実際は魔法じゃなくても、魔法の存在を信じます。

たぶんそういうことです。
大切なのは、それが盲信なのか敬信なのかです。

人は自分の視たいものを視る

人は身勝手な生き物です。

みたくないものはみえないフリをします。

逆にみたいものは実像がなくてもみえてしまう。

「愛がなければ視えない」
「愛があるから視えてしまう」

これはどちらも成り立つし、誰にでもあり得ます。

今回強調したいのは、盲信でも敬信でも、必ず悪であるとは限らないということです。

視たいものを必死に追い求めることで力が湧くこともあるし、視たくないものから逃げることで救われることもある。

結局世の中というのはどう転んでも本人の意識次第です。
ポジティブでいることは大切ですが、ネガティブな感情も時には役に立ちます。

どちらであっても、それが自分にとってプラスであると捉えることが大切だと思います。

ありがとうございました!

サポートがあればすぐ次書きます!!