「生きたい」と「死にたい」は等価値か

こんにちは、しんです。

毎日塾講師していて家族以外との接点がほとんどない僕ですが、ときたま友達とかとご飯食べたりもします。

僕は実年齢は24なので(精神年齢は20)、周りの人たちはみんな社会人として立派に働いています。
そんなみんながとても生き生きと感じられて、「生きたい」という活力を垣間見ました。

それに対して僕はというと、ハナから生きたいなんて思ったことはないので常に「死にたい」としか思ってないのですが、「生きたい」っていう気持ちと「死にたい」って気持ちは同じ欲望なんだから等価値では?と思った次第です。

世間一般的にはどこからどう考えても「生きたい」気持ちの方が尊いのは言わずもがなですが、LGBT+等の多様性が認められるべき現代では、死生観についても認められるべきなのではと思っています。

自ら死を選ぶということは他の大勢を悲しみに巻き込むことになるので良くないことだとはわかってはいますが、周りの人々はそういう嫌悪感を表に出すべきではない、というのが多様性を認めることだと理解しているので、やはりそこに疑問を持つのは現代人としてどうなんだ?と疑問に思うわけです。

別に自殺したって誰が罪に問われるわけでもない。
むしろ万年の欲望が満たされるのだからハッピーなのではないか、とまで思います。

死にたい人に生きてほしいと思うのはそれこそエゴなのではないだろうか…と。

「生きたい」と思う気持ちが尊いものであるということは十分理解しています。
畏敬の念すら感じるくらいです。

ですが、それと反対に「死にたい」という欲望ばかりが押さえつけられなくてはならないのもどうなんだろうと思ってしまうのはおかしなことですか?

いまだに僕はこれに対する納得できる答えを受け取ったことはありません。

「周りの人のために生きる」というのはそれはもちろんそうなのですが、そうやって自分のことを棚に上げて周りの人のためだけに生きてきた結果、通常では負うことのない苦しみに苛まれている人というのは確実に存在するはずです。

そこから逃げ出すために自分本位に生きることもまた認められるべきなのですが、どうして「死にたい」欲求ばかりが咎められるのだろうか。

これに対する納得できる答えが提示されるまで、僕は鳥籠の中なんじゃないのかな、と思考は堂々巡りです。

何か目標に向かって頑張ろうとも思えないし、誰かのために頑張ろうとも思えない。

普通にクズだけど、飲み会で自分だけ1000円しか出さないようなゴミだけど、そこから抜け出すくらいなら死んだ方がましだってメンタルでいる限り救われることはないのでしょうか。

とか言いつつ、別に特段悩んでるわけでもなく、もうどうにでもなーれって思ってるだけなので世話ないですけどね。

いつか変われる日が来るのでしょうか。

変わりたいっていう気持ちさえも人間の同調圧力の末のモノだと思ってしまって素直に享受できない気もしますけど。

翌日読み返したら恥ずかしさで顔から火が出そうな内容ですけど、今更恥とかないのでこのままにしときます。


おわり

サポートがあればすぐ次書きます!!