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あれから一年

あれから一年。

昨年2022年10月は半分以上、入院して過ごしていた。

以前にもBlogに書いたが、指の一部切断という怪我で入院していたのだ。

最初は個室に入れてもらえた。

一番苦労したのが、トイレで…。
足の指から手の指に移植した関係で、足の指にも深い傷があり動いてはいけない(動けない)ので、大の時はナースコールで車椅子でトイレまで連れて行ってもらう。
小の時は、自分で尿瓶にするということがデフォルトになっていた。

尿瓶になんか今までしたことないし、寝ながら尿瓶に出すとかも当然ないし、出ないのだ。
おしっこをしたくても、尿瓶を持っていくと出したくなくなる。
でも、尿瓶を外すとまたしたくなる。
みたいことを繰り返して、気が病みそうになった。
看護師さん曰く、理性が邪魔をするようだ。
トイレではないところで、寝ながらおしっこしてはいけないのだと…。

看護師さんにも相談して、ベッドの端に座りながら尿瓶に用を足すというやり方ならなんとかできることが判明。

人は排泄の自由を奪われると一発でやられる。気が滅入るという話。

その頃、病室で聴いた「FM COCORO」のとある番組で、斉藤和義さんは次のようなことを言っていた。

『ツアーするための体力はツアーでしか養われない。
ツアーをするために日頃から体調管理をしていないという姿勢だけを見て、プロ意識がないと言われることには物申したい』
と。

あっ、そうか。
尿瓶でおしっこをする力は尿瓶でおしっこをする時にしか身に付かない。
当たり前だけど。


病院の朝ごはんには、大体牛乳がついてくる。ご飯と味噌汁、おかずに牛乳…。
給食を思い出す。
この組み合わせイヤやねんな。
看護師さんが、ご飯に振りかけをかけると食べやすいよとアドバイスをくれた。
妻に頼んで届けてもらったのは、永谷園の「大人のふりかけ 青春編」

左手が使えないから、ふりかけを開けるのも看護師さんにお願いすることになる。

「スパイシー唐揚げ味とかあるんですね〜、今日は何味にします?」
「今日は、キーマカレー味でお願いします。」

ふと、とあるフリーペーパーに目を落とせば、アメリカの美術家アレックス・カッツは、次のように語っていた。

「77年間絵を描いてきた」
「自分が生きている時代、暮らしている場所で時代の本質をつかんだ作品を作るんだ」


僕は呟く。
「永谷園は、僕たちが暮らしている場所で時代の本質をつかんだフリカケを作るんだ。」

風呂には当然入れなかった。
洗髪は週に2回、めっちゃ頭が痒い。
痒くてゆっくり寝れない時もあった。

足の親指から移植した皮膚がちゃんと定着しているかの確認は4時間に一回必ず来る。
「ドップラー」と呼ばれる機器を指の近くに持ってきて、ちゃんと脈動しているかを確認する。

ザーーー
ドクッ
ドクッ
ドクッ
ザーー
みたいな感じになる。
夜中だろうが関係なく来る。

「生きててよかった
生きててよかった
生きててよかった
そんな夜を探してる」


「深夜高速」フラワーカンパニーズ
歌詞 鈴木圭介

読んでみたかったけど読めてなかった鈴木圭介さんの「深夜ポンコツ」を読んでいた。

自分の指の先を見るのが嫌だった。
というか、怖かった。

本を読んだり、音楽を聴くしかやることがなかった。
そして、めちゃ涙脆くなってしまっていた。
今となれば何故なのかはわからないが、以下の文章を読んで涙が止まらなくなってしまった。

「スーパーマーケットに行って、果物か何かを買おうとしたんです。
そしたらレジの人が、必死に何かを言うてるわけです。
でも、僕はフランス語はわからんし、わかりたいとも思っていないから、何を言うてるかわからない。
でも、そのときに、その人は必死に、つまり、感情で何かを言うてたわけです。
僕も、必死でそれを聴こうとしていたわけです。その人を拒絶していたわけじゃないから。
そうしたら、わかったんです。以下省略」


「私の文学史」町田康

誰もこの文章で号泣するやつおらんやろと思うが・・・。

個室から2人部屋に引っ越すことになった。
この頃からようやく少しだけ歩けるようになった。
看護師さんが、100均かなんかのスリッパの一部加工して、僕専用のものを作ってくれた。
入院も2週間をこえると看護師さんや、掃除の人など打ち解けてくる。

首には太い針の点滴が入ったままだったので、移動するときに点滴と一緒だったが、
自分の足で歩けるということは、嬉しかった。

同じ病室の人は、どんな事故なのかはわからないが、両手の指を怪我してしまっているようで、1人で食事を食べることすらできないようだった。「全治2年」、「後何回か手術しないといけない」というフレーズも聞こえてきた。

Uさんという先輩が「りんご」を持って見舞いに来てくれた。
コロナなので、面会はできなかった。

とうとうというか、ようやくというか退院の日が来たが、正直迎えに来てくれる妻とどんなテンションで会えばいいのかわからなかった。
と言いながら、どんなテンションもクソもなく普通にいくしか選択肢はなかった。
とりあえず「久しぶり。」と言った。


帰り道にスタバのドライブスルーに寄ってもらって、ケーキとデカフェを注文した。
よく晴れた秋の日だった。
もう先のことを考える気力とか気合いみたいなものがなくなっていた。


自宅に帰ってからも、療養と通院は続くのだが、家事もなーんもできないし、午前中は映画を観たり、本を読んだり、昼飯食ったら寝る。
さらに、起きて音楽を聴くといった具合。

週に2回は通院しないといけなかった。
父が車で送ってくれた。
往復2時間という車中で、久しぶりに父とゆっくり話すことができた。今となれば貴重な時間だった。
父もすっかり歳をとったなと。

風呂は正月明けまで、ずーっとシャワーだけしかできなかった。
手と足にカバーを付けて。
寒かった。湯船に入りたくて仕方がなかった。


ダウンロードしたものの、全然使えていなかったDAWソフトのableton liveを使い、稚拙な曲を作り始めた。
曲を作っていると時間が経つのが早かった。
とりあえず色んなことを忘れて、曲作りをしていた。
ソフトの解説動画みたいなのもYouTubeたくさん見た。
初心者向けの音楽理論の本も読んでみた。

音楽は、普段あまり聴くことのないアンビエントな曲を好んで聴いていた。
雑音が無いので、沁み渡るようだった。
ああ、ええなぁーこういう曲も。

そうこうして、仕事に復帰した。
通勤が1番つらかった。なんせ歩けない。
通院と合わせて週2職場に通勤し、あとは在宅勤務をした。
みんなが心配してくれてありがたかった。
外勤ができないのが歯痒かった。

家事もほとんどできないので、妻は本当に大変だったと思う。

さらにそうこうしていたら、もう年末になっていた。
紅白歌合戦に星野源が出ていた。
「喜劇」という曲を歌っていた。
ああ、ええ曲だなと。

『ふざけた生活は続く』
「喜劇」歌詞一部抜粋 星野源

年明けすぐに、バンドのTwitterに自分の怪我の詳細を投稿した。
多分、慰めて欲しかったからだと思う。
会ったこともないフォロワーの方からメッセージが届いた。
「自分も左手小指の一部を失くすという怪我を7年半前にしたが、なんとか今も音楽活動ができている。悔しいこともあると思うが頑張れ。」といった内容のものだった。
素直に嬉しかった。気に留めてくれてありがとう。

1月に入って、久しぶりにスティックを手に取った。
スネアを叩くと指がビリビリしたが、「叩けなくはない」という感触だった。
体力もかなり落ちている気がした。

ほどなく、お酒のOKが出て、指にはめていたギブスのようなものが無くなった日に、以前の職場の友達Kさんを誘って難波で飲んだ。
付き合ってくれてありがとう。
楽しかった。

2月の初旬、バンドメンバーと焼き肉を食べに行った。
この頃から杖をつかずに歩けるようになっていた。
「3月にスタジオに入ろう」という話になった。
嬉しかったが不安もあった。

その2週間後くらいに職場のメンバーと、久しぶりに深酒をした。
当初は、カフェインもアルコールもNGだったが、お酒を飲んで二日酔いになったことが新鮮だった。
以前はしょっちゅうこんな感じだったなと。

年明けから、左肩が痛くて上がらなくなっていた。
ずっと固定していたのが原因のようだった。いわゆる五十肩的な症状である。
ジャケットを着るだけで、激痛が…。
なんやねんこれ。
それから鍼治療に通った。
明らかに左腕の可動域が少なくなっていた。

春が近づく3月。
久しぶりにスタジオで、音楽することができた。
嬉しかったが、案外普通なような気もした。不思議だった。


以降は大分怪我以前と同じような生活をすることができている。
ただ、当然以前と同じようには動かないし、違和感も消えない。
リハビリに通っている中でふと気づいた。
あぁ、そっか。ここからはそんなに劇的には変わらないだなと。
以前と同じような生活ができれば、リハビリとしては満点なんだと。

歩くスピードも段違いに早くなった。
指の見た目はまだまだ痛々しい。

6月。
京都まで、メトロまでトミー・ゲレロのライブを観に行った。
なんだか感無量だった。

7月、軽ーくだがサーフィンをした。
なんとかだけど、できるじゃないか!

少しずつ、周りの人たちから怪我人だという認識が薄れていくのを感じた。
車の運転も問題なくできるようになった。

夏の暑さが本格的になり、ウンザリしていた頃、マレーシアからメッセージが届いた。
ボーカルの「かまゆさん」が年末に一時帰国するからライブしないか?と。
「メンバーと相談します」と返信しながら既に決めていた。
「絶対やる」と。

2月に、会期終了が迫った京都のアンディ・ウォーホル展に行くかどうがすごく迷った。
結局行けなかったので、本を買うことにした。
その本の最後の方には、こんな言葉があった。

『どんな人でも、生きていれば、
いつか必ず美しくなれる時期が来る。』

アンディ・ウォーホル

もうすぐ、怪我から一年が経つ。
忘れないように色々と記しておこうということでこの文章を書き始めた。

僕が美しくなれる時期はもう過ぎ去ったのか、これから訪れるのか、
さっぱりわからない。
でも、それでいいかなと思った。

PS カバーの写真は、僕がリハビリ通院中にいつも渡っていた橋からみた景色です。

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