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再出発のようなもの


桜もあっという間に散ってしまった。
2023年の春は進んでいる。

ふと思いたって、blogをTumblrからnoteに変えてみることにした。

何か新しいことは春にやるのがいい、などと。

怪我から半年が経ち、リハビリによって少しずつ指の稼働域が広がっていくのを感じながら、一方で消えない違和感、変な触覚、後遺症的な四十肩…など。
深刻に考えると気が滅入るので、あんまり考えないようにしている。

大病を患ったり、大怪我をすると人生観が変わるという話も耳にするが、取り立てて何かが変わったという実感もない。

それでも少しは変化しているかもしれない。

町の中で何かしら不自由な思いをしている人に以前より目が向くようになったという気がする。

あと、すごく変な表現だが、もう自分が、自分の人生の中心にいないという感覚が強くなった。
めちゃくちゃ矛盾した文章だが、感覚としてはそうなんだから仕方がない。

頑張って何かを突き詰めていけば、どこかでブレイクスルーするはずだと、根拠はないが信じていたが、そうでもないことが世の中にたくさんあるということも知ったような気がする。

療養中にゆっくり読んでいた東浩紀さんの本に、こんな文章が出てくるので引用してみる。
自分の知識人としての限界を次のような言葉で吐露している。
幼い自分のまわりには、学者や知識人がいなかったと。

—以下引用—

知識とも努力とも想像力とも関係ない、いわば階級的な限界だ。
(中略)
自分の限界を、限界として否定するのではなく、運命として受け入れ、肯定すべきだと感じている。


—引用終わり—

言い訳がましいが、弱気とかではなく、自分の器をもっと大きくして、色々なことをありのままに受け入れるようになりたいということでもある。

話は変わるが、敬愛するとまでは言えないが、尊敬すべきミュージシャンが立て続けにこの世を去っていった。

そんな方々は死ぬ時どんな気持ちだったのか?
後悔はなかったのか?
自分の限界をどのように受け止めていたのか?

などと答えの問いを立ててみる。
当然ながら、答えはない。

ふと、そんな時に仲本工事さんの言葉が頭をよぎる。

人生はやりたいことができなくなったときが出発点だ。

この言葉の温度感のようなものが、比較的スッと自分の中に入って来た。

ある意味、今が仲本さんの言う出発点ではないか?
この出発点は、どこに繋がっているか?
そもそも道があるのか?
ゴールがあるのか?

さっぱりわからない。
なので、この辺でやめておく。

2023.04.20

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