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【TRAVEL】鹿児島知覧・鹿屋~もうひとつの聖地巡礼記

強行軍ではありましたが、先日鹿児島県の知覧と鹿屋へ行ってきました。この地名でピーンと来る方も多いと思いますが、どちらも太平洋戦争において特攻隊の基地となった場所。現在も大ヒット中の「あの花が咲く丘でまた君と出会えたら」で興味関心を持ったこともあり、痛ましいながらも、我々の祖先がどんな気持ちで国を守っていったのか、その「証」を今に伝える二つの資料館を訪れましたので、ご紹介したいと思います。


知覧特攻平和会館~号泣必死、ハンカチのご準備を

こちらは旧陸軍航空隊の知覧基地にある歴史博物館です。館の職員さんによる解説(30分)や当時の映像(30分)、さらにはタブレットによる音声解説などもあり、1,2時間程度の滞在では見切れないレベルの内容になっています。もちろん展示の中心は「特別攻撃隊(特攻隊)」。特攻隊の歴史から、「お国のために」と散華されていった隊員の方々の遺品や遺書、そうした品々を敬意を持って紹介されていました。

若き青年たちの悲しい運命~こんな不条理あっていいのか・・・

話には聞いていましたが、これほど涙が止まらなくなるとは・・・と、自分でも驚くほど隊員たちの書かれた「最期の手紙」に心を打たれました。一人一人に物語があり、いろいろな思いを持ちながら「国のため」に沖縄へ飛び立っていった隊員たち。年齢は10代後半から20代を中心に、最高齢が30代前半という若き青年たち。本来であれば、人生の一番楽しい時期を謳歌し、それぞれに家庭を支えていくはずだった方々が、道半ばで時代に翻弄されていく・・・。

一方で「悟り」の境地の隊員たち

飛び立つ隊員たちの手紙からは「悟り」の境地すら感じました。どこか「達観」し、すでに準備は出来ている、そういった気迫の伝わるメッセージが見受けられました。一方、決して両親には知らせてくれるな、という両親への情愛を伝える手紙も数多くありました。なんとしても自分が「特攻隊」であることを隠し、自分は大丈夫だからと両親を安心させるための「嘘」を通し、その後飛び立っていく・・・なんという不条理というか、空しさ、悔しさでいっぱいになりました。

なでしこ隊の献身~隊員たちへの一服の清涼剤

映画「あの花が咲く丘でまた君と出会えたら」にも登場していましたが、地元の女学生たちが「なでしこ隊」を編成し、隊員たちのお世話を手伝っていらしたそうですが、そんな「なでしこ隊」の方々のエピソードを紹介されているコーナーもありました。どちらも若い男女たちですから、ちょっとした甘酸っぱいムードもありつつも、特攻隊の方々は数日間を知覧で過ごした後は、飛び立っていくわけですから、なんとも言えない胸の詰まる状況だったのではないでしょうか。それでも献身的に隊員たちを支える「なでしこ隊」たち。彼女たちに手紙や「思い」を託し、後に彼女たちが郷里の親御さんたちへ送った手紙や当時の日記なども残されていて、どれもが胸に響くものでした。

富屋食堂~特攻の母、鳥濱トメさんと隊員たちの交流

そして知覧の武家屋敷地区にある「富屋食堂」にも足を運ぶことができました。こちらは有名な特攻の母、鳥濱トメさんの営んでいた食堂です。知覧の特攻平和会館同様、隊員たちの写真や遺品、さらには手紙などが展示されており、さらにはトメさんとの交流を紹介するものも多くあり、ここがほんのひととき、隊員たちが心を休めることができた場所だったことを伺わせています。

隊員たちも「分かっていた」当時の現状

展示の内容上、いずれの記念館も「写真不可」のため、若干うろ覚えで書き進めますが、心に残る数多くの手紙の中でも、すでにこの戦争について「悟っていた」ものがあり、非常に興味深かったです。大まかに内容を覚えている限りで再現すると、ご本人は英国式議会制民主主義を理想とし、日本をそうした国家にしようと燃えていた方。ですから当時のドイツやイタリアの独裁主義を批判しており、その両国と同盟を組むなどという当時の日本の行く末に不安を抱いている、というような内容を書き残していらしたのです。そして自身は特攻という形で最期を迎えることを悟り、自分の思い描いた理想の民主主義は作れなかったが、後生の人々が日本を立て直して欲しいという希望を綴った内容だったように記憶しています(私自身の脚色も入ってしまっているかもしれませんが・・・)。

戦争への憤り、悲しみ、怒りが一転、自分(たち)に

これほど悲しい事実があっていいのかと、どの展示物を拝見させてもらいながら憤り、悲しみ、怒り、と、同時に「今の自分(たち)はこれでいいのか?」と、刃を自分の胸に向け、自問自答してしまいました。あれだけの大敗北により焼け野原からの復興を果たし、一時はアメリカに次ぐ世界第二位の大国などと持て囃された日本も今やどうなんでしょう?あまりにも情けない(何も出来ない自分も含め)、とにかく先祖の方々に申し訳が立たない、そんな不甲斐ない現状にこそ苛立ちを感じます。

鹿屋航空基地史料館~旧海軍側の特攻隊

こちらは旧海軍鹿屋航空基地にある海上自衛隊の航空史料館です。実は神風特攻隊は旧海軍の体当たり攻撃隊が基になっていた、なんて話を今頃知るという自分の無知さに呆れるほどですが、旧海軍と旧陸軍双方が結果的に多くの若い隊員たちを散華させる結果となったというのは本当に痛ましく、辛い現実です。この史料館は海軍の歴史に沿って展示されているので、日清・日露戦争に始まり、太平洋戦争、そして戦後の海上自衛隊の歩みまで知ることができます。こちらも1,2時間の見学では足りないほどのボリュームでした。

知覧同様、涙なしでは見られない展示品ばかり

こちらも知覧の特攻平和会館同様に、隊員たちの遺品、遺書など多くの展示品に心を打たれ、人目をはばからず、気づくとハンカチを手にしながら一つ一つの隊員たちの「思い」を受け止めていました。中でも上級隊員の決死の抗議文が心に残っています。こちらも写真NGのため、私の記憶にある内容でご紹介します。それはあまりにも的確に当時の世界情勢を掴み、英米の卑怯なやり口に対する、日本の武士道の精神で正々堂々と反論するという非常に筋の通ったものでした。当時、情報が統制されていた中で、これだけしっかりと分析をされ、間違っていることを指摘できる「武士」の姿にすがすがしさを感じました。とはいえ、内容はもちろん号泣必至の数々・・・なんとも言えない空しさ、悔しさでいっぱいになりました。

「勝つため」ではなく「終わらせるため」だったのでは

以下はあくまでも私見です。異論もたくさんあるとは思いますが、ご勘弁頂きたいと思います。今回、知覧と鹿屋の二カ所で旧陸軍・海軍双方の特攻隊員たちの「思い」を感じる機会を通じて、感じたのは、隊員たちにはこの戦いの結末を分かっていたのではないかということです。分かっていながら、「戦争を終わらせるため」、無謀であると分かっていながら、自らの命と引き換えに、自分たちの祖国を「守った」のではないでしょうか。

もちろん手紙では「この戦いに勝って参ります」「戦艦を沈めて見せましょう」と書き残してはいますが、そんな楽観なわけがなく、現場の戦士たちには結末が予感できたのだとおもうのです。その上で、繰り返しになりますが、なんとしても祖国を守りたい、自分たちは今できることをするから、あとはこれからの人たちに繋ごう、頼んだ!というような鬼気迫る思いすら感じました。そう思うと、なんと現状の情けないことか・・・。

大事でなく小事でいいから、「今できることをする」という決意

私ももう若くないので、純粋に「戦争反対!」などと、青臭いことを申すつもりはありません。現に大戦から80年近くが経つというのに、全く紛争はなくならず、逆に戦争の足音が聞こえてくるような状況になっているように思います。お節介ではありますが、できることなら、多くの方が現地に足を運び、隊員の方々の「思い」に触れ、何かを感じ、気持ちを持ち帰り、これからの生活において、何か少しでも「改善」を加えていくことができればよいのではないかと思うのです。

そうでなければ自らの命と引き換えに、なんとか愛する家族、愛する国を守ろうと奮闘された特攻隊の方々に申し訳が立ちません。一人一人がちょっとした「改善」をしていくことで、きっと大きな
変革に向けた一歩を進むことができるのではないか、いや、そうしなければ、と思いました(ま、自分ごときに何が出来るのか、というツッコミを自分で入れておきますが・・・笑)

「あの花が咲く丘で、また君と出会えたら」

今回、知覧と鹿屋を訪れ、史料館で数々の品々に触れていくなかで、映画「あの花が咲く丘で、また君と出会えたら」のエピソードや映像のヒントがあちこちにちりばめられていたように思いました。今現在、原作と映像化に関する痛ましい悲劇により、この問題が取り上げられていますが、本作においては両者がうまくマッシュアップして、丁寧に作られたように思います。もちろん展開がうまくいきすぎる感などはありますが、それでも「特攻隊」という悲しい事実を上手に現代に紹介されているように思います。こうして現に「聖地巡礼」ならぬ、特攻隊に興味を持ってはるばる鹿児島まで出かける人間が生まれたわけですから(笑)


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