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本紹介 『限りある時間の使い方』

人生80年=約4000時間。

 身近な人の突然の死を経験した事があるならば、『自分の人生の有限性』という言葉に、よりリアルさを感じる事ができるかもしれない。それが明日突然やってくる可能性がゼロでない事も。しかし、不思議なことに時間が経過すると、あれほどまでに強烈に感じていた時間の有限性という感覚が薄まっている事に気づく。少なくとも私はそう思う時がある。

 どうやら、大切なことは、時々立ち止まって、深く掘り下げないといけないようだ。本書の各一節は、そのヒントとなるかもしれない。

(下記、本書抜粋)


あえて不便なことをするから、そこに価値が生まれる。
 死にかけた人が、それまでよりも幸せになるわけではない。そんな単純な話ではない。自分が死ぬという事実、そして自分の時間がとても限られているという事実を骨の髄まで実感した時、人生には新たな奥行きが現れる。幸せというよりも、人生がよりリアルになるのだ。
 限りある人間はいつだって、厳しい選択を強いられる。今日の午後、例えば僕が執筆をすると決めたなら、必然的に他の重要なこと(例えば息子と遊ぶこと)を諦めなくてはならない。何かを諦める事は辛いから、何もかもを詰め込みたいと思うのも無理はない。けれど、もしも存在していること自体が当たり前ではないとしたら(中略)何かを選択できるということ自体が、すでに奇跡的だと感じられないだろうか。
 メニューから何か1つしか得られない事は、決して敗北なんかじゃない。決められた時間の中であれではなくこれをするという、前向きなコミットメントだ。自分にとって大事なことを、主体的に選び取る行為だ。
 他にも価値のある何かを選べたかもしれないという事実こそが、目の前の選択に意味を与えるのだ。これは人生のあらゆる場面に当てはまる。例えば結婚に意味があるのは、その他の(ひょっとすると同じ位魅力的な)相手を全て断念して、目の前の相手にコミットするからだ。この真実を理解した時、人は不思議な爽快さを感じる。失う不安の代わりに、捨てる喜びを手に入れることができる。
 僕たちはいつも、人生の冷酷な現実に向き合うのを避けて気晴らしを求めたり、日々の忙しさに没頭したりしている。後戻りできない決断をするのが怖くて、自分ではなく、世間に決めてもらおうとする。そろそろ結婚すべきだとか嫌な仕事でも続けるべきだとみんなが言うから、まぁ仕方ないさと受け入れている。でもそれは、ただの責任回避だ。何かを捨てて何かを選ぶという現実が重すぎて、選択肢がないフリをしているだけだ。重い現実から目を逸していたほうが、人生が快適かもしれない。でも、その快適さは人を空っぽにして、人生を僕たちの手から奪ってしまう。自分の有限性を直視して初めて、僕たちは本当の意味で、人生を生き始めることができるのだ。
大事なのは先延ばしをなくすことではなく、何を先延ばしにするかを賢く選択することだ。
心理療法学者ジェイムス・ポリスは、人生の重要な決断をする時、『この選択は自分を小さくするか、それとも大きくするか』と問うことを勧める。そのように問えば、不安を解消したいという欲求に流されて決断する代わりに、もっと深いところにある目的に触れることができるからだ。
 今の仕事を辞めるかどうかで悩んでいるとしよう。そんな時どうするのが幸せだろうかと考えると楽な道に流される。あるいは決められずに徒然と引きずってしまう。一方その仕事を続けることが人間的成長につながるか(大きくなれるか)、それとも続けるほどに魂がしなびていくか(小さくなるか)と考えれば答えは自然と明らかになる。できるなら、快適な衰退よりも不快な成長を目指したほうがいい。
心の安らぎと解放は、承認を得ることからではなく、『たとえ承認を得ても安心など手に入らない』という現実に屈することから得られる。
自分が無価値であると気づいたとき、ほっと安心するのは当たり前だ。今までずっと、達成不可能な基準を自分に貸して来たのだから。非現実的なハードルから解放された時、限りある時間を有意義に使う方法は今までよりもずっと多様な可能性に開かれる。今やっていることの中に、思ったよりもずっと意味があることがたくさん見つかるかもしれない。今まで降らないと思っていたことが、本当はとても価値のあることだと気づくかもしれない
自分が無価値であると気づいたとき、ほっと安心するのは当たり前だ。今までずっと、達成不可能な基準を自分に貸してきたのだから。非現実的なハードルから解放された時、限りある時間を有意義に使う方法は今までよりもずっと多様な可能性に開かれる。今やっていることの中に、思ったよりもずっと意味があることがたくさん見つかるかもしれない。今までくだらないと思っていたことが、ホントはとても価値のあることだと気づくかもしれない
 たとえ一流のシェフになれなくても、子供たちに栄養バランスの良い食事を用意する事は、何にも代えがたい重要な行為だ。たとえトルストイのような名作が描けなくても、同世代の一握りの人を楽しませることができれば、小説を書く価値は充分にあると思う。
 どんな仕事であれ、それが誰かの状況を少しでも良くするのであれば、人生を費やす価値はある。あるいはコロナ禍で隣人への配慮をほんの少し取り戻すことができたとしたら、たとえ社会を根本的に変革できなかったとしても、十分に価値のある学びだったと言えるはずだ。
人間であることの痛みは辛い。でも禅僧のシャーロット浄光ベックが言うように、それが耐え難いのは「治療法があるかもしれない」と思っている時だけだ。痛みが必然であることを受け入れれば、自由がやってくる。ようやく人生を生きられるようになる。


僕たちは常に、何か1つに決めるよりも優柔不断でいることを好む。なぜなら『我々が思いのままにする未来が、等しくほほえましく、等しく実現可能な、様々な形のもとに、同時に我々に対して現れるからである。』(仏哲学者 アンリ・ベルクソン)
 空想の中ではどんな選択肢も捨てる必要は無い。仕事で大成功しながら、家事が育児も完璧にこなし、日々マラソンのトレーニングに打ち込み、長時間の瞑想し、地域のボランティア活動に参加する。想像するだけならそれは可能だ。でも実際にその家の何かをやろうとするとすぐにトレードオフに直面する。何かで成功するためには、別のことに費やす時間を減らさなくてはならないからだ。ベルクソンは言う。無限の可能性で膨れ上がった未来の観念は、未来そのものよりもいっそう豊かであり、そしてそれこそ、所有よりも希望に、現実よりも夢に、より一層の魅力が見出される理由である。
 現実世界でのあらゆる選択は、できるかもしれなかった無数の生き方を失うことに直結する。厳しいけれどそれが現実だ。現実逃避を止めて、喪失を受け入れることができれば、有害な先延ばしに陥らなくて済む。出口のない優柔不断から抜け出すことができる。何かを失うのは、当然のことだ。


 何が起ころうと気にしない生き方とは、未来が自分の思い通りになることを求めず、したがって物事が期待通りに進むかどうかに一喜一憂しない生き方だ。それは未来を良くしようと言う努力を否定するものではないし、苦しみや不正を諦めて受け入れると言う意味でもない。そうではなく、未来をコントロールしたいと言う執着を手放そうということだ。そうすれば不安から解放され、本当に存在する唯一の瞬間を着られる。つまり今を生きることが可能になる。



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