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明治の唱歌を合唱ソフトに唄って貰う525

五 広島大学教科書ライブラリー 發兌 大日本圖書株式會社
(M.26.8.15印刷M26.8.18発行)M27.1.22訂
巻之五上
5-a06


*歌詞と譜面で齟齬あり、[]内が譜面
臣の鑑
作曲 山田源一郎
作歌 加部巖夫 稲垣千頴

楠公

七(なな)たび八回生(やたびい)きかへり
死(し)にかへりても大君(おほきみ)の
御楯(みたて)となりし楠木(くすのき)ぞ
世〻(よよ)のかゞみとなりにける

名和長年

よるべもやみの荒礒(あらいそ)に
みこごろ碎(くだ)きます君(きみ)を
御舩(みふね)の上(うへ)にとゞめしは
世(よ)にたゞよはぬ績(いさを)なり

兒島高徳

謀(はか)りし事(こと)はかひなくて
舟坂山(ふなさかやま)も杉坂(すぎざか)も
空(むな)しくすぎて行宮(かりみや)に
ことばの花(はな)を咲(さか)せけり

小楠公

別(わか)れし父(ちち)のをしへなり
いさめし母(はは)のみこゝろを
たゞ一(ひ)とすぢの畷(なはて)みち
おもひいる矢(や)ぞ[の]あはれなる

臣の鑑
此曲は、主として、前曲にて學びたる、「へ」調の要項を確認せしめん爲めに掲げたるも
のなれば、前曲と、殆ど同一の問答を爲し、猶ほ歌詞に就きては、楠氏父子始め、忠臣の事蹟を、
よく講話し、唱歌にも、十分精神を發表するを要す。

楠公の、
南朝無二の忠臣なりしことは、人みな、是を知れり。湊川の軍、敗れて、民家に入
り、將に自害せんとする〓(とき)、弟正季を顧みて、死して、何をか爲さんと思へる」と云ひしか
ば、正季、願はくは七たび人間に生れて、國賊を斃さん」と云へるに、正成、莞爾(につこ)とうちえみ、是れ吾
心なり」といひ畢り、耦刺して、死に就けり。

楠氏、世々、南朝に事へて、逆賊を滅さんとせしは、正成の、七生、賊を滅さん」と云へる
辞に違はず、かく、「いきかへり、しにかへり」をも、南朝の御爲に、粉骨碎心せして、其姓
の、楠と云ふに因みて、「御楯となりし」とは云へり。・「世々のかゞみ」とは、人臣たる
ものゝ萬代の龜鑑となれり」と云へるなり。

名和長年は、伯耆の名和の人にて、これも、南朝の忠臣なり。後醍醐天皇、隠岐の行在を
出でさせられ、潜かに海に航し、名和港に至り、源忠顯を遣はして、赦旨を傳へたまへり。
長年、感激して、直に乘輿を、船上山に奉じ、一族數百人と、力を協せて、賊を破り、遂に京
師に還御まさしめしは、比類なき大功なり。

後醍醐天皇は、御船にて潜幸し玉ひ、船上山にて、賊を退けたるなどに因みて、「よる
べもなみ」といひて、よるべなきに、浪をいひかけ、浪といふより、「みこゝろくだき」と
いひ、船上山に迎へ奉りしを、「みふね」の上と云ひ、長年の忠勤を、「世にたゞよはぬ」と
はいへるなり。

兒島高徳は、備前の人なり。父を、範長と云へり。好みて書を讀み、大義名分を重んじたり。
後醍醐天皇、隠岐に遷幸あらせたまふと聞き、奮然起て、義兵を擧げ乘輿を奉迎せん
と欲し、豫て舟阪山に潜れて、久しく乘輿の至るを待てり。然るに、乘輿は、道を轉じて、山
陰道に向ひたまへりと聞き、険齟を躊みて、美作の杉坂に至れば、又、既に及ばず。是に
於て、從兵、皆な散じて、謀零むなしくなれり。高徳、望を失へども、猶去ることあたはず、乘
輿を尾して、單身、院庄に至り、竊に行在に入り、いかぞ其所思を知らせ奉らんとおも
ひて、櫻樹を削りて、天勿,レ空,ニ匂踐,一 云々の十字を書して、其志を遂げたり。

歌は、此事蹟を叙したるにて、「すぎ坂は、むなしくすぎて」に照應し、「ことばの花」は、櫻
樹に書したる故、其語をさしていへるなり。

小楠公正行の事蹟も、之を知らぬ人なし。「わかれし父のをしへ」とは、櫻井驛にての、父
正成の遺訓をいひ、「いさしめの母のみこゝろ」とは、故郷に歸りて後、父の首級を見し時、
思ひ迫りて自殺せんとせして、母の教訓によりて思ひ止り、それより遊戯にも、賊を
滅さんことを事とせしをいへり。斯くて、數年の後、死を決して、吉野の行宮を辭し、後醍
醐天皇の陵を拝辭し、如意輪堂の扉に、「かへらじと」の歌を書き付け、出でゝ、四條畷に
討死せり。

歌は、此事蹟を叙したるにて、全躰の意味は明なり。・「たゞひとすぢのなはてみ
ち、おもひいる矢ぞ」云々は、一筋の縄と畷とに云ひかけ、「おもひいる」は、思ひ入ると
射るとに云ひかけてよみたるなり。

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