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コミニュケーションツールとしての晴れ男

『晴れ男・雨男』『晴れ女・雨女』なんて単なる偶然でしかないことは周知の事実だ。みんなそれをわかって会話を楽しんでいる。

もちろんこういうケースもある。
晴れ男の場合、

①極端に雨を嫌う
②嫌いすぎるため雨の日は家から出ない
③晴れの日ばかり外に出る
④結果的に晴れ男の爆誕

となる。

職業によっても変わってくるだろう。

休日が決まっている人はその休日が雨だった場合、「遊びに出かける日なのに雨。」→「おれは雨男だ。」となる。

でも私のようなフリーランスは基本的に自分で休みの日を決められるので、晴れの日にしか出かけない。
結果的に晴れ男になる。

ただ、言っておこう。私は偶然の晴れ男ではない。
生粋の晴れ男だ。

雨が降っている日も自分が歩くところだけ晴れている。
屋内に入ったときに雨が降り、外に出るときは晴れる。

先日行った沖縄でもカタブイ(=スコール)があったが、雨と雨の間を原付で颯爽と走ってまったく濡れずに目的地の美ら海水族館まで行った。

ここで晴れ男の諸君は言うだろう。
「おれにも同じような経験がある!」と。
実際の会話ならそこで話が盛り上がる。

…たまに、ここで真面目な人がこう言い出す。
「それはレアケースと言ってね。珍しいことだから記憶に強く残っているだけだよ。」と。

そんなことはわかっているのだ。
私たちは天気が自分でコントロールできる範疇ではないことはわかってる。レアケースであることもわかっている。

しかしそれをわかった上で、”コミュニケーションツールとして” 本気で自分を「晴れ男である、雨男である。」と自己紹介するのだ。

もちろん聞く側は否定などしない。
「そうなんだー!」
と思いっきり乗っかって相手の晴れ男エピソードを聞いて楽しんだり、自分のエピソードを話して盛り上がる。

それが共感性がある者のコミュニケーションだ。ここで相手を否定する意味などない。(ちなみに、否定しても盛り上がる会話もあるので否定自体を否定しているわけではない)


今日は雨。

先ほどあまりにもパンが食べたくなったので家から徒歩10分くらいの美味しいパン屋さんに出かけた。

店の庇(ひさし)に入って傘を畳んだとき、魔女の宅急便のトンボが大雨の中グーチョキパン店でキキを待つシーンが思い浮かんだ。

自分とアニメのキャラクターが脳内で重なる瞬間はなかなかエモい。

たまには雨の日に出掛けてみるのもいいものだ。


さて、最後にもう一度言っておこう。
私は生粋の晴れ男だ。証拠をお見せしよう。

こちらは中学時代の修学旅行の集合写真。真ん中にいる私のところだけ太陽の光が当たっているのがわかるだろうか。

…そういうことだ。
愛されているのだ、太陽に。


読んでくださりありがとうございます!!