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いま考えていることメモ

本にとりいれようと思ったけど、うまく言語化できずに寝かせているテーマが多くなってきて、脳のバックグラウンドのリソースをやたら食ってる感じがしてだるい感じがするので、ざーーっと瀉血するようなイメージではきだしてみよう。

人に読まれるようには書かないけど、どこかのポイントでシンクロする人がいるかもしれないな?とおもいつつかく

脳内たれながすので、批判的な思考もそのまま出しますがケンカうりたくないし、好きな人批判されてムカついてもそこは読み進めることを決意した自己のほうを責めていただければ!

服と存在の関係

新しい服をきると気分がかわったり、周りからの受け取られ方も変わるし、自己存在の形成に極めて重要な影響がある感じがしている。なんとなく鷲田清一さんとか、フランス現代思想の系譜でこういう話はされてるのかもしれないし、ある程度読んだこともあるけど、自分と焦点があわなくてモヤモヤしている。どちらかというと密教の三密(身密)とかのほうが芯に近いかな。ファッションは資本主義とか、そういうのとからめて語られがちだけど、なんかそういうことじゃないんだよな。そりゃ関係あるんだけど、そこに焦点をあてるともっと大事なものが見えなくなる感じ。


ペットボトル

なにか美術作品をつくるならペットボトルはずっとテーマにしたいものだ。ペットボトル馬鹿にすんなこの野郎。環境活動家に目の敵にされててかわいそう。石油つまりもとは化石であり生命で、ペットボトルに生命をみれない感性をこそ恥じるべきではないか?しらんけど。
たぶん、「わかりやすさ」に拘泥するベースには怒りがある。なんでもいい。ほんとに「空」なりを語るのであれば、俗なるものにも聖性を見いだせないのはおかしいやんね。ペットボトルを差別すんな。帰れ。


大谷翔平

ほんまになんなんやろな?大谷翔平って。いや、スポーツ全般。
なんで大谷が活躍したら嬉しいのか?二刀流ですごい成績をのこしてて、怪我したときに、なぜその事実を不可視化しようとする力が働く?自己がストーリーだとしてそのストーリーとどういう形で「大谷翔平」はかかわっているのか?推しや信仰と、たとえば経営者の大黒天信仰と、現代人の大谷翔平への信仰(信仰なのか?)の異同はどこにある?
阪神ファンである、という時に、「自分」というストーリーとどう重なる?
個と集団、集団と信仰、怒り・苦・もどかしさ。そういった溢れ出る未処理の情動対処として、スポーツのような擬似的な対立構造をつくっている?おもしろくない。そうだけどそういうことじゃない。


音楽

音楽ってなに?マジで。
たとえば宇多田ヒカルは、「なにをやっているのか?」
言語化にちかいことなのかなと思う。広い意味の。自分という、それこそ言語的に構築されたストーリーから、構造的に、あるいは社会の力学的にどうやってもはみでるもの、なかったことにされるもの、を音波にとして存在させる。鎮魂にちかいかな。
宇多田ヒカルを好き、というとき、宇多田ヒカルが好きなのではない。たぶん。宇多田ヒカルの生み出した歌が光をあてる「自分」というストーリーの外側の「なにか」と再会を果たすことが快楽ということかな。宇多田ヒカルは宇多田ヒカルの身体でその快楽をあじわう秘技として「音楽制作」をしている。さっきの「歌が光」、宇多田ヒカルと似てていいし読むとややこしい。歌が「なにか」に光をあてると、それが影になることによって成立していた「自分」というストーリーが台風に遭って、なんかこわれて、気持ちよくて、再構築されて、新陳代謝する。「自分」は社会存在だしストーリーだし観念だけど生き物で、つまり無常で空、ということなのかな?音楽の官能性は自己の崩壊や再会と深く関わっているきがする

マンダラと苦

アーティストでも経営者でも、イコン、象徴になっている人物っていうのはたぶん自己の場においてマンダラ的に示すことができるはず。神々とその信奉者を怒らせることになるのでいまぽっと頭に浮かんでくる現代のビジネスインフルエンサーを例にだすのはこわいからやめておくけれども、古いが例えば松下幸之助と井深大と本田宗一郎はもちろんキャラは違うけれどもサンシャイン池崎を4人目としてたてればもとの3人はほぼ同じ存在だ。マンダラでも弁財天・大黒天・毘沙門天などの天部とくらべて、明王部・仏部はだいぶキャラがにてくるのだけど、それはその包摂する精神性の範囲が大きくなると必然的にポジショニングがかぶってくるからであって、たぶんそういうことが起きている。自己をマンダラ的にとらえるというのは、なにか非常にマジョリティ集団からパージされかねない危険性もはらんでいるようにおもうけれど、うまく理路の連絡をつければ現代人の自己観をおおきくぬりかえるようなことが起きる気がするし、すごくざっくりいうなら、「社会」での対立は減ると思う。というより社会が「社会」みたいなかんじで実体感がへって楽になるんじゃないかとおもう。

マンダラはいいんだよね。問題は苦。一切皆苦の苦。ブッダは渇愛を苦の原因としたけれども、つまりタバコを吸うことによってニコチン不足がおきるというときに、ニコチン不足=苦は解決可能だよ。タバコを吸うんじゃなくて、辞めるんだよ、といったとするときに、なんとなく、渇愛起因の苦ではない、いわば原苦のようなものが捨象されているような感じがして、で、その原苦と、たとえば空海のいう「響」はかなり近いところにある感じがしている。このあたりをクリアにできないと死ねない。気になりすぎる。

次本をかくならこのあたりちゃんとクリアにしたうえで書きたい。密教の源流はもうすこし遡らないといけないし、たぶんブッダ以前の六派哲学、ヴェーダもおさえないといけないし、たぶんヨガとかもちゃんとやんなきゃわかんねーところなんだけど大変そうすぎるし深入りしすぎたらなんか怖い感じもする。自分はこわせばいいというものでもない。

苦をしっかりとらえたうえで、渇愛、そして中道というものの、もうすこし現代的な解釈を提示して、そこに今作の空と接続したうえで、苦や渇愛の切実さをふまえたうえでの他力なんかを語りたかったのだけど、それはまたやらないといけない。どこかで大きな範囲で求められるテーマとピタッとはまればいいのだけど。



20個くらい書こうと思ってたけど5個か。ちょっとスッキリした

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