あわい
どこまでが”あわい”として認識されるのだろう
どちらもが見えるまでだろうか
どちらもが手の届くところにあるまでだろうか
厚さはどうだろうか
高さはどうだろうか
色は同じなのだろうか
素材は同じなのだろうか
片方が木で、片方が鉄では、扉とは言わないのならば
木と鉄には”あわい”が存在しないのか
人が二人立っている、その内側は”あわい”
では、外側はなんだろうか
扉の外側は”あわい”ではないのだろうか
外側が”あわい”なら、至る所”あわい”だらけで、世界は”あわい”の交差点
空間は”あわい”を結びつけたもの
なにかとなにかの”あわい”から逃れたところに存在することはできず
自らもなんらかの”あわい”の片側であることから無縁であることはできず
自分自身も”あわい”の一部であり
右手と左手の”あわい”
ドーナツの外周と外周の”あわい”になにがあるのか、というドーナツ論争
右手と左手の間には私があると思うのだけれど、私とドーナツの穴は何が違うのか
どちらもいわゆる実体はなく、触れることはできない
でも、こと更に存在を主張する
”あわい”は存在しないのに、存在しているよりも存在している