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世界、歴史


世界はある?ない?
世界は概念。
物理的な物体としての地球は存在するけれど、認識としての地球はさまざま。それでも、実態としてはひとつの地球が存在する。
世界は、実態として存在しない。概念として存在するものとされる。が、概念としての世界とはなんだ?地球を覆っている人類の文明的なものが世界なのか。都合よく使われている感のある世界。
世界を自分の手に取り戻してもいいのではないか。今日歩いた一歩。ガイドブックも地図も見ないで、ただ歩いた一歩。それは、自分だけの歴史。世界。

安定した木の幹の上に居て、不安定な細い枝葉の先に歩いていく誰か。いつかそこには花が咲き、幹の上の輩の注目を集める。やがて枝が少し太くなり、輩は幹から太くなり始めた枝へ進み出す。花の咲いた場所にいた誰かは、また別の枝先へと進んでいる。
誰もいない枝に進めば、一番最初に一番近くで花が咲くときに出会えるかもしれない。でも、咲くまで枝に足を進めることはない、殆どの輩は。

学ぶ、本を読む。どんな風にこの木の全体像はあるのか。そんなことを学ぶこと。葉を枯らせてしまえば木も枯れてしまう。大勢が群がれば重さで枝は折れるかもしれない。いろいろ学ぶ。学んで、読んで、終わる。木の幹にある鳥の開けた大きな穴にギシギシに押し合いながら住まい、穴から覗く空を見て、こんなもんだとゴチて暮らす。
穴から出て、幹を歩き、枝の先まで歩いていけば、空は四方に広がり、風が流れ、芽吹き花咲く、誰もいない場所がある。

進むしかないのだ。留まってもかまわない。ただ、居心地のいい場所に留まるということは、穴の中でギシギシに押し合いながら暮らすことになることを許容しなければならないかもしれない。穴の中の権力闘争に打ち勝って、穴の中で快適に暮らすこともできるかもしれない。所詮、穴の中だけれど。

自ら進めば、それは歴史であり、新たな世界の創造である。誰にも侵されない自分の歴史と世界を手にする。学び尽くしてから旅立とうとしても、それは不可能だ。新たな歴史が作られる新しい世界なのだから、用意された学びですべてが解決されることはない。DIYで解決していかなければ、行き詰ってしまう。
難しく考えることはない。幸運なことに、この場所に留まって今を維持し続けてくれる人たちがいる世界がある。行き詰まったら、戻ればいいのだ。死にそうになったら迷わず戻ればいい。助けを求めればいい。死ぬかもしれないけど、運が悪けりゃ。でも、おそらく1人の人間を受け入れるくらいの余裕はある。
ただ、今いる場所の世界と言われるところでの負債にだけは気をつけなければならない。負債からは逃げられないし、それをこの世界は許さない。そして、負債は時と共に成長する。放ってはおけないのだ。
乏しい装備でも、負債さえなければ、怖いものはない。
でも、怖くない負債もあるにはある。それは、莫大な負債だ。とてつもなく大きい負債は、債務者に力を与える。とはいえ、おそらく自由はなくなる。

歩いていて、学んだり本を読んだりって、結局は人の歴史や世界をなぞって習って従ってなのかもなあなどと思ったり。全てがそうではなくて、肩車を借りることができるのは、感謝すべきことで。問題は、肩車を降りても歩き出さないこと。また別の肩車から遠くを見てみたり、そんなことをしても意味がないということ。歴史も世界も、個々のもの。自分で一歩踏み出して、歩きながら考えて(考える足とはよくいったもんだ、葦だけど)学んで、それが歴史で世界。
誰にも手出しされない、自分だけの世界。どれだけ築くことができるのかが、人生であり歴史であり文化であり世界。