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100日目。喪失を抱えて生きる、ということ。

母が旅立って、今日でちょうど100日が経った。

百箇日の墓前法要を営ませていただいた昨日。石塔には、真新しい文字で母の名前が刻まれていた。父の名前と母の名前、ふたりが18年ぶりに並んでいるのを見て、ここが私の人生のひと区切りなのだという気持ちが湧いてきた。折しも熊本は、あちらこちらで豪雨災害が頻発する梅雨のまっただなか。母がひとりで暮らしていた地域は、ともすると孤立集落になりかねないところでもある。ただでさえ、コロナ禍で当たり前のことが当たり前でないいま。ベッドの上で子どもや孫に見守られ、やすらかに旅立ってくれたことが、今では奇跡のようにも思える。


ところで、百箇日の由来については諸説あるようで。その昔。土葬だった時代には、亡くなって100日ほど経つ頃に遺体が白骨化し、魂も離脱していくと考えられていたからだとか。地獄ゆきか極楽かが決まる四十九日のお裁きで極楽に行けなかった人には、この百箇日でリベンジのチャンスが与えられる、とか。さらにもうひとつの説としては、死を悲しんで泣く「哭」の状態を卒業する日、というものもあるらしい。



大切な人を亡くすこと。ふるさとをなくすこと。自分のルーツをなくすこと。その心許なさを、つくづく感じる最近なのだけど。なんにせよ、もう、いい加減ひと区切りつけなさいなといわれていることは明らかで。ここ一ヶ月ほど極まる、「喪失」の感情にどうにか折り合いをつけていかねばと、あらためて思う日。





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