懺悔録、走り書き
剣とは面白いもので、かような私のごとき剣士くずれでも、竹刀を手にすれば迷いが薄れ、新たな生の感覚が体を満たします。
近場を数十分ほど駆けたのち、素振りのために竹刀を手にしました。
相手がいればまだしも一人で修練を行う以上、ひとたび竹刀を持ったらば、あとはその獲物を正しく振ることだけが眼目となります。精神のもっとも無垢な状態と言ってよいでしょう。
瞬間、あるお方の言葉が脳裏をよぎりました。
平安の世の末、王家にあって不遇のまま配流され、怨霊と化した崇徳院の言葉です。
「なにひとつ意のままにならぬ、我が一生よ」
この一言を反芻し、そうして、今までの私はどうも驕っていたに違いないと気がつきました。
手に入れたいものがすべて手に入るのなら苦労はしません。されど私はと言えば、あれもやりたいこれもやりたいと、若き欲望の赴くままに考えをめぐらし、すべてを掴むためには如何なる手を用いるか?と苦心するばかり。
たとえば美しい女性と、ただ言葉を交わすだけで満足していられたならば性の執着は生じないはずです。
欲望が大きくなるにつれ、その欲望を叶えるために自己をも大きくしていくことこそが義でしょうか。
さにあらず。なにもかも手に入れようなどと欲を出せば苦しくなるのみ。むしろ、意のままになるもののほうが世には少ないのでしょう。
「奢れる人も久しからず、唯(ただ)春の夜の夢のごとし」
私がまことに平家一門を思う者であるならば、そう易々と、安徳帝のように海の底へと沈むわけにはいかないのです。
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