業/失望

近ごろなにかに失望する機会が多い。はっきり言って疲れている。というか苛立っている。

失望の原因はどれもざっくりまとめれば「公共性や社会正義に対しての意識があまりに低い」点に尽きる。

もちろん、何もあらゆる人間・あらゆる組織が公のためにあるべきだとは思わない。ただし初めの理念として社会的なものを掲げている場合や、具体的に公的な資産を使っている場合については話がまったく別だと思う。

一例。掲げた大義名分のために団結すべきはずの団体が、内輪での交流や褒め合いに終始し、なおかつその状態に危機感を覚えず良しとしている。そんなのは、理念を全員に浸透させるなんて現実的に到底できない何千人・何万人規模の集団にのみ許される状態である。たかだか数百人の集まりなのにそんな体たらくなのは、組織として根本的におかしい。そう難しいことを言わずとも「組織の存在自体に価値がある」という部分だって当然あろうが、少なくとも理念を打ち出すべき時に打ち出せないのは上層部の意思が弱いからだ。そんな船なら早く沈めばいい。

一例。科研費だとか、我々国民の出している税金を財源としながら研究をしているのに、当の研究者たちは大変のんきに構えている。とりわけ人文系の場合、研究を専門としない一般の人から「価値がある」と少しでも思われないようなら長い目で見て存続すら危うい。だいたい公共性のない文系学問なんて、語義矛盾に等しい。ぎらついた目のひとつでも見せてほしい。実際にその危機感をもって行動せんとする人もいると知っているぶん、象牙の塔に籠るだけの人々にはやはり厳しい目を向けざるを得ない。塔自体が壊れてしまえばいい。

まあそれもこれも、結局ひとことで言うと「君が恵まれた環境にいるぶんを、社会に還元する意思を見せてよ」ということに尽きる。

そりゃ突き詰めれば、なにをもって還元と呼ぶのかは難しい。存在自体がなにかの役に立っているともいえるし、そもそも我々だって動物なわけだから別に高邁な理念も公共性も要らないともいえる。

けれど俺たちが人間である以上、嘘でもいいから、机上の空論でもいいから、俺はなにかを語ってほしいし、なにかを見せてほしいし、なにかを変えてほしい。そう願うくらいは、罪ではないはずだと思う。

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