見出し画像

大晦日に源義経の九朗明神社に初詣?に行ってみました【東京都で唯一の入定塚や木曽馬の放牧地も近くにあります】

新年あけましておめでとうございます
今年もよろしくお願いいたします


嶋田印刷がある東京都稲城市平尾は、仏教や民間(土着)信仰が昔から多い地で、特に平尾の台原遺跡は、縄文時代から奈良時代までの複合遺跡もある地です。

しかし遺跡の資料などの大半は、複合施設ふれんど平尾という施設などでしか見れません。この施設は昭和には稲城第八小学校という学校でしたが、その頃から縄文時代の資料や、縄文土器を作るクラブ活動などがありました。

この地域に行くには小田急線の新百合ヶ丘駅から小田急バスや、温泉の無料送迎バスなどに乗るのがお勧めです。またふれんど平尾や平尾の中で一番大きい神社の杉山神社では、貴重な木曽駒という木曾義仲や武田信玄などが乗ったかもしれない木曽馬が、たまに一般公開されます。

平尾の隣の神奈川県川崎市麻生区の古沢には、白鳥神社や栗木御嶽神社という日本武尊(ヤマトタケル)や伊邪那岐(イザナギ)が、御祭神(ご神体)の神社もあります。九朗明神社の御祭神は、伊邪那岐と菅原道真と九郎判官源義経らしいです。

ヤマトタケルも義経も戦の天才ながらも早死にし、白鳥や元寇なチンギス・ハーン(ジンギスカン)になったという伝説があります。ただしチンギス・ハーンは資料から、出自が分かっているらしいので違う説が有力です。

更に九朗明神社は平安時代に源氏が、狼のように強い?犬飼を取り込んだ、狼神話というのがあるらしいです。蒼き狼のチンギス・ハーンに義経が成って元寇をした伝説とは違うようです。

源義経が早く武力が強い政権を作ったので、元寇で耐えられたという感じがするので違うとは思いますが、鎌倉幕府が敵視した奥州藤原氏に庇護してもらったので、判断が難しいところです。

古沢というのは古沢緑地という、東京と神奈川の県境では都内とこの地域という近距離では珍しく森があり、その森の中には九朗判官源義経が立ち寄ったと言われる、九朗明神社というお稲荷さんのような小さな神社があります。

1970年代の平尾は稲城町の茶畑で、現在も九朗明神社の周辺の旧・古沢村は畑が多くあるので、義経は峠の茶屋のような感じで立ち寄ったのかもしれませんね。この地域の周辺のJAなどや、野菜の直売所があったり、麻生警察はカエルがいた田んぼでした。ラジコンカーのレース場もありました。

鎌倉幕府執権の平氏北条を素早く滅ぼした貧困な源氏の新田義貞も、分倍河原から鎌倉という直線ルートです。片岡鶴太郎さんが演じた北条時宗の孫の北条高時が「足利も新田も佐々木も源氏」というセリフが印象に残ります。

この記事では地図に載っていない、嶋田印刷の近くの東京都稲城市平尾の古沢緑地の看板から、約10分の最短ルートで獣道のような山道を通って、九朗明神社に行く方法を述べます。

なお古沢緑地の看板がある場所に行くには、どんぐり号という無料バスが数少ない時間で通っています。

降りるバス停名は美望会坂上です。そこのバス停の予定表から見て、左の最初の坂を上ると、古沢緑地という看板が見えます。なお2021年の大晦日の神奈川の古沢緑地では晴れているのに初雪?が降ったという変な状態です。

①古沢緑地の看板

九朗明神社への道1_古沢緑地_看板

緑地とは自然を守るために、土地の売買などや無断侵入などが出来ない場所だと思います。なお本サイトのトップヘッダーの写真は、1993年頃のこの古沢緑地です。ちなみに看板の左下側に防空壕らしき洞穴がありました。

②古沢緑地の看板の右横の狭い道を通っていく

九朗明神社への道2_古沢緑地_右横の道

この道は地図にも載っていない「本当に道かな?」と思えるほど獣道な狭い道ですので、転倒する危険もありますので足元に注意してください。そしてフェンスの角先の道に行きます。ここから忍者のように走れば、九朗明神社には5分で到着できますが、他の道では20分はかかります。

③九朗明神社に行くには右の下り坂の急斜面な階段に行きます

九朗明神社への道3_古沢緑地_九朗明神社に行くには右の道

左の道は新百合ヶ丘総合病院という大きな病院に行き、この左の道は小田急線新百合ケ丘駅に行く最短ルートです。しかし九朗明神社に行くには右の急斜面の階段になる道を行きます。この階段は義経の戦の鵯越よりも急かもしれません。

④鵯越より急斜面かもしれない階段を下ると左に白い社務所が見えます

画像9

階段は一応、一本道ですので迷わないと思います。しかし足元が危険な急こう配な階段が続きますので、足元に注意した方が良いです。そして階段を降りると左に、神社の白い社務所と赤い鳥居が見えてきます。なおこの写真は帰り道から撮っていますので、神社は右にあります。

⑤九朗明神社の案内の看板と社務所と赤い鳥居

九朗明神社への道4_九朗明神社_社務所と鳥居と説明

看板の連絡先は町田になっていますが、御朱印状などがもらえるのは、この九朗明神社から徒歩20分ほどの、最寄り駅が小田急多摩線の栗平駅の栗木御嶽神社らしいです。

⑥九朗明神社の社務所は古沢会館という地元の老人会などの場所でもある

九朗明神社への道5__社務所

この地は他に畑や社務所の向かい側は薪などもあり、かなり山の森の中という感じです。鞍馬山で育った牛若丸・遮那王・源義経に似つかわしいというか、故郷を義経が感じたのかもしれません。

⑦九朗明神社はお賽銭箱も無い小さな本殿と石像と表札しかありませんが竹藪の中で味があります

九朗明神社への道7_九朗明神社_本殿

九朗明神社は稲荷神社よりは、石像と社務所とスペースがありますが、中規模な神社と比べると小さい感じです。

しかしこのくらいの神社は多くあり、また農家などの個人が所有の小さな鳥居と稲荷神社の更に小さな本殿よりは大きいです。

⑧天下泰平と刻まれた2つの向かい合った犬の石像が珍しいと思いました

九朗明神社への道8_九朗明神社_左面

本殿の左にこの石像がありました。大晦日なので正月のために、本殿の前には餅などが置いてありました。

⑨表札には「清和」と書かれていました

九朗明神社への道9_九朗明神社_説明表札

源義経の先祖は清和天皇の皇子が臣下し源氏になった経基王です。この源経基の経を源義経は名乗ったようです。そして義経の父親が源義朝であり、鎌倉幕府の初代将軍の源頼朝が異母兄で、その正室が北条政子です。

昔にテレビの歴史ドラマで北条政子が、伊豆にいた時に高貴な人と結婚したいと望み、この関東の荒くれ坂東武者の地にはそんな人はいないと言われました。

しかし唯一平家に敗れて懲役刑な流人ながら源頼朝が、子供の時には高貴な位にいました。この父親の配慮で10代から40代までの牢人が、数年で天下人になりました。

平将門が負けた理由も武力的には強いながらも、中央の強大さを恐れる地方の人の心理かもしれません。また根や源流を重んじる農耕民族の日本人は、新皇などの新しい物に対して、拒否感が昔からあるのかもしれません。

源義朝はついうっかり、平治の乱で首相な感じだった20代と若い藤原氏の大敗に付き合わされただけで、運悪く最期は暗殺されました。どっちかの軍に属さないといけなく、中立を保つのは戊辰戦争や現代でも難しいようです。

暗殺者を源頼朝は最初は戦力として受け入れましたが、多くの御家人という臣下が、北条氏の政権独占のためか粛正されました。そして源頼朝とその子供の将軍も早死にという、源氏の大半が滅亡という壮絶さです。

源氏も武蔵坊弁慶も強かったですが、壮絶な人生でした。ちなみに東京で唯一の入定塚の平尾入定塚も、室町時代にお坊様が生きたまま土に埋まったという壮絶さです。

木曾源氏の義仲は源義経に討たれ、甲州源氏の武田信玄の子孫は平氏の織田信長に討たれ、織田信長は源氏の明智光秀に討たれました。

武田の騎馬隊はドラマのようなサラブレッドという西洋の長身な馬ではなく、ロバに近い木曽馬です。

東京都では唯一、稲城市平尾の(珍しい狐像の)稲荷大明神とひらお苑という高齢者施設の近くに、約50頭の木曽馬の放牧(繁殖)地があります。

稲荷大明神も九朗明神社も、小田急線の新百合ヶ丘駅から歩いて約20分ほどです。そもそも読売ランド・ゴルフ練習場(2時間打ちっぱなしで約2200円)やサバイバルゲーム場や温泉や、高齢者施設も近くに多くあります。

この地域は現代では、日本一平均寿命が長く、犯罪率は低いです。夜は都内のように車の騒音などはしない、静かなベッドタウンです。

そして人生は短く「人間老いやすく学成り難し」と思いました。またお金持ちでも将軍様など高貴でも貧困でも、時間だけは運などによる平等さです。

多くの人が危険だと言っても、鵯越のようなリスクを恐れない近道をした方が良い時もあります。これが投資による成功・常識による失敗です。

IT業界では特に宗教などをタブー視する人もいますが、宗教と歴史と文化というのは、絡み合って面白いです。

仏教の僧侶などが昔は情報のデータベースを貯めて、寺子屋のように教えてきたので、政教分離というのも無理だと思います。現代社会はそういう不自然さを感じます。


最短ルートはグーグルマップなどでも調べられます

古沢緑地の看板は+ボタンを押して拡大すると出ますが、下の地図ですと真ん中のAのような道の右足の下な部分です。

木曽馬などの日本の馬は、ロバやポニーに近いので、お子様などが馬を見やすいです。また平尾の杉山神社の儀式でも、ここの木曽馬が使われています。更に平尾の隣の稲城市坂浜には大塚牧場もあります。

 ひらお苑の坂下に↓木曽馬の繁殖地  ↓この下の緑の部分がゴルフ練習場

↑この辺にサンヨーガーデンライディングクラブという乗馬クラブがある

剣道も複合施設ふれんど平尾や、空手も近所で学べるようです。スポーツジムや診療所などは、周辺の麻生区に多くあります。急行停車駅の新百合ヶ丘駅となると、小田急線の他の駅よりは、かなり商業施設がありますからね⋯

上記の地図を拡大しますと、美望会の坂の上というバス停から、地図に載っていない道ですが、稲城市指定の緑地の中にある、谷向の墓所という石像などや江戸時代あたりに出来た藁葺き屋根だった農家を通り、その近くの坂の上の天道山の稲荷神社を通り、木曽馬の放牧場(の横の神社は私有地)や、珍しい像の稲荷大明神を通り、杉山神社から栗木御嶽神社に行けます。

ひらお苑の坂下に東京ではほぼいない木曽馬「木曽駒はなちゃん」がいます。

木曽駒(木曽馬)とは、日本の馬で、外国のように大きくはないですが、小さくて可愛いロバのような馬です。武田の騎馬隊は今の西洋馬で突撃ではなく、馬で運んだという話です。以下が辞書での歴史です。

日本列島において馬は古墳時代の4世紀末から5世紀にかけて伝来し、信濃国・甲斐国など東日本の中央高地では西日本に先行する4世紀末代のウマが出土

鎌倉時代後期、鎌倉幕府を滅亡させた新田義貞の軍が用いた軍馬の骨が遺跡より多く発掘され、DNA鑑定の結果、木曽馬であった事がわかっている
https://ja.wikipedia.org/wiki/木曽馬

1980年代のひらお苑あたりは空き地と森林で、野球などができました。この辺はまったく建物が無い、山の中という感じでした。雪が積もると坂が急なので、衆美館あたりには車が登ってこれませんでした。

平尾谷戸公園の上あたりも、1980年代には森林で、耕作者以外でも頼めば収穫できる苺畑と山道がありました。現在は稲城市だと梨とブドウは料金を払えば収穫できると思います。またこの道で地元では肝試しなどもしました。

画像11

この山道は写真③に左下の道につながっていて、地図には記載されていませんが、この道を行くと平尾入定塚や白鳥神社などに行けます。

画像11

この都県境の道も舗装されていない土の道で、この道はどこが道だと分からない危険さもあります。目安は「土が見えている木が多くない部分が道」となります。

またこの写真も平尾入定塚に行くではなく、写真③に行く道となっています。

しかし古沢緑地の看板から谷向かいの墓所に行き、天道山の稲荷神社と木曽馬の放牧地と稲荷大明神から、平尾入定塚を通り白鳥神社や栗木御嶽神社に行き、更に九朗明神社に行き、小田急多摩線の五月台駅から帰るというルートが、大半を見れるかもしれません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?