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嶋りょうたヒストリー②高校時代

こんにちは!川崎育ち、26歳!嶋りょうたです。
前回に引き続き、嶋りょうたの生い立ちの続きを書いていきたいと思います。前回は、中学校卒業までお話しました。

前回の記事はこちら。

今回は、横浜平沼高校に入学してからです。
前回も書いたように、「誰も知ってる人がいないところで1から人間関係作りをしたい」ということで、場所的にも無理のないところで、進学を志望しました。(中学校のときに何かやらかしたわけではありません(^^;)
入学式のとき、行って驚きました。女の子が多いぞ、と。恥ずかしながら、その時、初めて女子高としての歴史が長かったことを知りました。私の学年は、7クラスあり、1クラスが女クラと呼ばれ、女子生徒だけのクラスでした。合唱コンクールめちゃくちゃ強いです。
私は110期になります。とても伝統がある高校で、親子で通う方もいました。


もう一つ、入学して思ったのは本当にいろんな地域から通っている学生が多いということでした。川崎、横浜のみならず、県西、県央から来ている子も多かったです。出身地域で呼び合うみたいなことも流行ってました(笑)
ただ、いろいろな地域の人と話す中でショックを受けたことがあります。それは、『川崎』のイメージについてです。それまではずっと中にいたので言われることはなかったですが、出身地域の話になると、「川崎ね~、あの治安悪いところでしょ」みたいに言われることもあり、みな若いですし悪気はないと思いますが、そういうイメージがあるんだと、ショックを受けました。ずっと川崎は好きなので、嫌いになることはないですが、知らないこともまだまだあるんだなと思い、それから川崎について、より一層気になるようになりましたし、ニュースがあるとすぐ調べるようになりました。外に出たからこそ、より川崎というアイデンティティが強くなっていった学生時代だったと振り返って思います。

部活は中学校と同じく、サッカー部に入部しました。部活動でも、なんとなく学年のまとめ役を任されることが多かったです。最高学年時には、副部長を務めました。部活動については、怪我に悩まされることもあり、試合に出れず、後悔が多いです。でも、その挫折した経験が大学時代の頑張りにつながったこともたしかで、私にとってはとても大事な時間だったと思います。

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行事にも積極的に取り組みました。体育祭では、誕生日によって春夏秋冬に分かれて競うのですが、2月生まれの私は冬組、3年次には組長を務めさせてもらいました。ちょっと荷が重いなと思っていたのですが、周りの支えでなんとかできました。支えてくれる人のありがたさを学びました。

受験勉強もコツコツと。経済的な理由もあり、志望校は公立1校と私立1校に絞って受験勉強をしていました。そして志望していた明治大学法学部に進学することができました。

学生生活は、勉学に励みつつ、サークルに打ち込みながら、学生生活を謳歌してやるぞ!と思っていたのですが…。
結果としては、とても充実した、そして人として大きく成長できた学生時代でした。続きは、また次回!
ここまでお読みいただき、ありがとうございましたm(__)m

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