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【雑記】無為とは何か

「無為」という言葉に昔から漠然とした憧れがあった。

(「無為」という言葉だけ書くとマイナスなイメージと捉えられることも多いようなので、ここでいう「無為」とは、「無為自然」と同義だと思って読んでいただければと思います)

むい‐しぜん〔ムヰ‐〕【無為自然】

作為がなく、自然のままであること。「無為」「自然」は共に「老子」にみられる語で、老子は、ことさらに知や欲をはたらかせず、自然に生きることをよしとした。

コトバンクより

私は割と先回り(という名の取り越し苦労)が多いたちで、まだ起こっていないことにも予防線を張るし、計画性があると言えば聞こえは良いが要するに小心者だ。そして想定外の出来事に弱い。アドリブでは何とかならないと分かっているからこそ、事前の対策に時間を掛ける。

仕事に関しては特にこういった傾向が強く出る。目線は今ここというよりもその先にあり、絶えず気を張っている。

前の職場に、そんな私とはまるで正反対の人がいた。目の前の課題に全力投球し、先のことは深く考えず大らかで、その時その時の状況に合わせて最適な対処をしながら進んでいく。そこまで心配しなくていいよ、何とかなるから。その人はよく私にそう言ってくれた。

自分にないものを持っているからこそ、その人はとても輝いて、自然体で、かっこよく見えた。「無為」というのはこういう生き方なのかな、と思った。と同時に、私にはそういう生き方はできないな、とも。
それらしく意識して、それっぽく生きることはできるかもしれない。でもそんなふうに意図して装っている時点ですでに「無為」からは程遠い。

さて、そんな「無為」な人が、職場でのとあるトラブルのきっかけとなったことがあった。
その人が深く考えずに取った言動が、受け手側に配慮が欠けたものと捉えられてしまい、クレームになったのだ。

大事には至らなかったこの小さな事件はそれでも、私にとっては衝撃だった。
私の考える「無為」は、誰かを傷付けたり、不快にしたりするようなものではないはずだった。
そしてその人が、自分の言動が相手にどのように伝わったのか、いまひとつ理解できていない様子であったのにも驚いてしまった。

無為と鈍感は似ているようで違うのだと、私はその時に悟った。

じゃあ「無為」って一体何なのだろう?

数年、そんなことを思いながら過ごしてきたある日、その答えの鍵となりそうな記述を見出したのが『淮南子』だった。

えなんじ〔ヱナンジ〕【淮南子】

中国、前漢時代の哲学書。21編。淮南王劉安が編纂させた「鴻烈」の現存する部分。道家思想を基礎に周末以来の諸家の説を取り入れ、治乱興亡・逸事などを体系的に記述。

またまたコトバンク

『淮南子』においては、人が手を加えるからこそ運河の各方向への流れが生まれたり、作物が成熟したりするのだという例を挙げたうえで、「無為」についてこのように説明している。(強調部分は管理人によるものです)

私のいう無為とは、個人の思惑が普遍の道に入り込んだり、勝手な欲望が正当な道をねじ曲げたりすることを許さず、事物の中にある理に従って仕事を始め、具わっている素質に基づいて成果を挙げて、万物の自然なありようを本来のままに推し進めてやりながら、こざかしい作為などには入り込む余地を与えない、という意味に他ならない。(中略)何かに対する感覚があってもそれに反応しないとか、何かが自分のところに接近してきても行動しないとか、を意味するものではない。

淮南子

私はこの記述からふたつの気付きを得た。
1.無為の状態とは、とある対象があって、その対象との間に生ずるものである。
2.その対象にたいして、自分がありのままの状態であるということが、必ずしも無為の状態であるということではない。
(むしろそれはただ我を通している状態ともなりうる)

無為=自然体で生きること、ではない。

とはいえ、何かに対して絶えずあくせくしたり、自分の神経をすり減らしたりすることも、無為とは言えないだろう。

自分に対しても、自分以外のものに対しても、しなやかに寄り添って生きるということが、一番無為に近いのではないかという気がする。
これは少し前からよく聞くようになった「レジリエンス」の考え方にも繋がっていきそうだと思った。

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