ナレッジ・ガレージ〜思いつきのガラクタたち〜

~図書館・まち育て・デモクラシーについてのつぶやき~

vol.1 「リベラルアーツと図書館」

 リベラルアーツを辞書で引くと、古代ギリシャに起源を持つ自由7科、すなわち「文法」「修辞」「理論」「算術」「幾何」「天文」「音楽」を基本とする「人を自由にする学問」と説明されている。単に「教養」と訳される場合もあるが、おおよその意味は「自由になるための技術」と理解されているのではないだろうか。
 さて、リベラルアーツを問うには、自由を阻害するものとは何であるかを問う必要がある。既存の知恵や学問は私たちの「問い」から生まれ、導きだされた「答え」は私たちをある領域の無知から解放して行動の自由をもたらしてくれる。しかし、その自由が切り拓いた地平には、また新たな問いが潜在していて、既知の認識は固定観念として未知の領域の解読を阻害する場合がある。問題を解決させるはずの制度が、一方で自由を規制する不自由の壁として存在してしまうこともある。
 図書館にある資料は、国会図書館の玄関にある言葉ではないが、「真理は我らを自由にする」がごとく、森羅万象の知識群によって私たちの行動の範囲を広げてくれる。しかし、リベラルアーツという学びや態度は、こうした道具立てとしての知識の習得を指すのではない。これらの知識の使い方、あるいはこれらの知識によって形づくられている自明性を疑い、より広範な自由を獲得するための思考と行動の実学なのである。
 そこで、昨今言われる市民協働という政策が、個人的人権の尊重や民主主義という価値の実現に際して大変意味のあることではないかと感じるのである。私たちが生活する地域は、地方自治体という地方政府によって、行政管理のもと法律や条例を基本としつつ、地方議会という民主主義制度によってその政策実行が正当化されている。いろいろな思いを持つ個人の要望が、100%かなえられる行政などというものはあり得ない。ここでは、より多くの誰かの自由のために、少数の誰かの自由を犠牲にする「最大多数の最大幸福」を目指さざるを得ない。
 しかし、地域社会に存在する幾多の意思決定は、こうした功利主義的な論理ですべて決定されている訳ではない。そこには、「より多くの人の利益」よりも、「より将来にわたって意義のある取り組み」が優先されることがある。雇用を増やし税収を上げる工場誘致よりも、未来に美しい景観を残すことが現時点での経済的利益よりも優先される場合がある。
そこには、合意形成に際して、多様な意見を承認したり尊重したりすることによって、その地域にとって何が有意義なのを議論するという地域力が存在している。
 もっと身近な例で考えれば、秋の文化祭の事業企画を決めていくという場面でも、慣例や有力者の意見を既定路線とするのではなく、様々な意見を出し合い、承認しつつ、最終的な合意形成をしていくというプロセスを成立させるのは、地域に生きる人々のコミュニケーション力と言っていい。家族でも、会社組織でも、地域社会でも、あるいは自治体においても、この意思決定が民主的な合意形成プロセスで行われる場合は、自由が保障されている社会と言えるのではないだろうか。
 こうした言わば「熟議力」を育むのが、リベラルアーツなのではあるまいか。図書館は、多様な資料情報を有し、集会施設も有する社会教育施設として、リベラルアーツが育まれる場であるべきだ。図書館司書も、「資料提供」という土台をベースにしつつ、社会教育主事や公民館主事などと協力して、リベラルアーツを育めるような公共空間として、図書館を再構築していくべきではないだろうか。

  『出版ニュース』 2018年5月号下旬号に掲載した校正前原稿より


vol.2  「公共財としての図書館」 

 義務教育には、多くの税金が投入されている。「自分には子どもがいないから、義務教育に税金が使われるのは納得がいかない」、などと主張する人はまずいない。自分自身も義務教育の恩恵にあずかったということもあるが、多くの国民が必要な教育をあまねく受けることで、社会の安定や持続性、発展性を担保できることを誰もが期待しているからであろう。
 公共図書館はどうであろうか。「自分は本は読まないし、図書館に巨額の税金が投入されることには納得がいかない。それなら老朽化している学校設備の改修に使ってほしい」という話はよく耳にする。しかし考えてみたい。義務教育で教材として利用される教科書は、「本」という形態である。その教科書を作り出すために、多くの本が下地になっているし、およそ世の中に流通している知識や知恵は「本」という形式で外形化され、世界に流布してきた。これまで世の中を変えてきたような発明やイノベーションも、こうした知的基盤としての書物に支えられてきたことは間違いない。
 つまり、「読まない人」も、多くの「読む人びと」の営みによって、現在の文明文化の恩恵に預かっているのである。
 だから仮にあなたが読まなくても、公共図書館への投資に寛容になりなさい。どこかの熱心な努力家が、その情報群によって学び、あなたの暮らしをもより好ましいものに変えてくれるから、という議論はあまりにエリート主義と言わざるを得ない。
 さて、本当に「読まない人」という人はそんなに多いのだろうか。そうは思わないのである。「読む」という行為が、実はかなり狭く理解されているエピソードがある。滋賀県で図書館準備をしているとき、高齢の男性が私たちの準備室に立ち寄り、「ワシは本なんか読まないから図書館なんかいらない」とつぶやいた。しかし、図書館が出来てみると、そのおじいさんは新聞を読みに来て、やがて週刊誌を毎週読みに来館し、「こんな本もあるのか」と、病害対策の本を借りてくれた。彼らにとって「本」とは、文学や小説のことであったことが後々のお話で分かった。
 誰もが、暮らしや仕事、あるいは何らかの事情でひとまとまりの情報群に目を走らせる。そこでは主体的な知的活動がなされているのである。
 有名な書店人である奈良敏行さんは「本屋には青空がある」と言った。「書店という空間は、現実としては閉鎖的な器である。壁際が書棚に埋め尽くされているので、窓も少ない。しかし、一冊の書物に出会った瞬間、読者の意識や観念は拡大し、精神は大空へと飛翔する。」(安藤哲也『本屋はサイコー!』新潮OH!文庫)
 義務教育だけが教育の場ではない。むしろ、社会に出てからの方が、多くを学ばねばならない場面に遭遇する。誰もが応分に持つ義務と権利の中で、自由に学べる公共図書館は、地域によって格差があるべきではない。私は本は読まない、と主張する人びとの中にも、身近に本に触れる環境があれば、積極的な読書家になっていた可能性は否定できない。自治事務であるわが国の公立図書館は必置ではない。しかし地方自治の理念からも、住民が主体的に地域社会で生きていくためにもぜひ図書館を豊かにしてもらいたいし、国にもナショナルミニマムという観点を手放さないでもらいたい。
 回りまわってみんなのためになる、という考えが公共の福祉であり、税で担保される公共財としての大きな特徴である。運営する側も、公共財としての図書館という観点を見失わないでいたい。

    『出版ニュース』 2017年5月号下旬号に掲載した校正前原稿より












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