やりたいことはなくていい

結局、私には大それたやりたいことはない。

何か(心に蓋をせず)感じていたい
感じたことを形に残したい
誰かとそれを共有したい
たまにはみんなで会いたい
できれば好きな人と暮らしていたい

どれも偶然の産物で出来あがるもので、例えば「絶対に宇宙に行く」とか「絶対に絵を描いて名を成す」とかそういう目標・夢とは遠い、ふわっとした感じ。


ただ、そんな自分であることを等身大で認められるようになったことは我ながら大した成功だなと思い、久しぶりにnoteを書いてみている。

15年前「自分は何がやりたいんだろう?」の中にいた私は
"「やりたいこと」「できること」「求められていること」の3つの円が重なった部分ができるといいね"というアドバイスを受け、そういうものかと思った。

できることは、少し分かった。私は国語や論文の評価が高く文章能力には比較的秀でているらしい。
求められていることは、妄想ではあるが色々と設定した。社会課題から引っ張ってくる傾向があった。(社会をよくすることが良いと思っていたため)
ただし、やりたいことが難しかった。取り立てて特にない、ということを、当時の私はおそらく受け入れられず、故に自己理解はできなかった。


そんな状態で色々と、心理系ワークショップをやったり、ブログを書いたり、トークイベントを企画したり。(当時は心理系に強い人と活動していたのでそういうジャンルだった。)金銭的だったり色々頓挫してまた会社に戻って、そのあとまたふらりと活動をし始めてまたイベントごとを初めて、案の定金銭的には全く成り立っていない。(現在は撮影関係に強い人と活動していることもあり自分がファッション系(和服)への関心あることからファッション系の撮影オフ会のようなイベントになっている。)

一生懸命やっていると、うまく行くこととうまくいかなかったことが見え次はこうしようと思えるし、やってみて初めて「こういうことが私はしたかったのか」とわかることもある。おそらく当時の私は、やりたいことがないというよりやりたいことがまだわからなかった。

やりたいことがあるからやる。ではなく、やりたいことはわからないけどとりあえずちょっとやってみようかな、でやる。その結果もっとやりたくなることが見えてくる。この順番だった。少なくとも私は。

やりたいことはないように見えても体の中に内在している。それが自分の思うような大したことではなくても、こういうのがいいかな。くらいはあって、何かしらやっているうちにだんだん見えてくる、これでいいんだと認められるという具合だった。

やりたいことなんて悠長なことを考える暇はなかった。生きるだけで精一杯なのでそんな悩みは贅沢だ、という人も多いとは思う。それはまさにその通りだと思う。(私の場合は困窮すると支援を受けられ本当に恵まれているのと、色々とツケに回し続けたり嫌になると辞めてしまったりで、色々と不真面目な性質もあり、なんとも申し開きができない部分はあります)

一方やりたいことがはっきりしている人も多いと思う。ただその人も、例えば、 バイオリン、木工、料理、とか。そのものがやりたいというより、実はそのものや活動をしていると感じられる、作れる、提供できる、何かしらを気に入っているからやっているのかもしれない。


絶対にコレがやりたいんだ!という手段は私は多分一生宣言できないし、それでいい。その時やりたいかもと思ったことをやり、次に興味があることに挑戦したり、心地いいなと思うこと、好きだなと思うこと、いけてるじゃんと思うこと、を叶えられる、偶然出会ったいくつかのことをやってみたいし、好意的に感じる方々と関わっていたいし、暮らしていきたい。



今は楽しくイベントや発信活動をしているから幸せだし、猫と暮らしているからその暮らしも大事だなぁと思っている。

金銭的に成り立つことは物事の一つの側面でしかないので、今まで金銭的に成り立っていなかったことは特に何も悪いとは思わない。悪いどころか、私は大量の時間とお金と心と体を使って、大量の出会いと経験機会と情緒的成長までした。これ以上のことはない。

けれど生活がそろそろ限界ではあるので、これから金銭的にも成立させる活動をしてみよう。これも一つの挑戦としてきっと楽しいだろう。


この本を朝読みました。教えてくれたYちゃんありがとう。






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