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私が大好きな泣ける曲、その2

これはもう圧倒的に私の感情が入っているので、それを前提に聞いて頂きたいお話しです。
佐藤弘和君の「青空の向こうに」
彼が亡くなってからも、色々な方が演奏されて広がりを見せている曲の一つです。
彼とはふとしたことから紹介されて、阿佐ヶ谷の教室に通って来るようになしました。
最初から普通のギタリストとは違い、ピアノも弾けますし、作曲もしているという事で穏やかな性格とは異なり音楽的には誰が見ても様々な才能があるのが分かりました。

しばらくして一緒にカルテットを組んで全国あちこちにツアーで一緒に行きました。青森の青函連絡船が見えるビルのホールで演奏会をした時の控室で
リーダーは喫煙、私は昼寝といつものルーティンでしたが、佐藤君は
ずっと「数独」をやっていて驚きました。まぁ作曲も音を選んで組んでいるわけですが。

そして、2011年3.11にあの東日本大震災が起こり(今年も元旦から能登半島で起こってしまいましたが)現代ギター社が「何かギタリスト達で出来る事はないか」という発案から私がリーダーになって応援ビデオを製作しました。

このビデオのメインになっている曲が「青空の向こうに」だったのです。
この曲は我が家のレッスン室に来て貰って、まだスケッチ状態だったこの曲を数テイク録音しました。
その時にはいつもの弘和ワールドの作品より明るく、壮大な曲でやはり地震の被災者に向けての前向きなメッセージ性を強く出たのだろうな、位にしか思いませんでした。

しかし、その数年後に彼の病気が発覚して(我々が知ったのが「しなのや」へのカルテットのコンサートの時でした)何度か病院にも見舞いに行かせて貰い、自身の作曲の相談にも乗って貰いました。
相当体調が悪い中、予定の通りいずみホールで彼の作品展が行われ、私は
指揮者として「光の街」を振らせて貰ったのですが、その数日後
私は中国は上海と南東へのアンサンブル講習会でツアーに出てしまいました。

丁度練習会場に行く車を待っていたホテルのラウンジで読んだメールで、彼が亡くなったことが友人のギタリストの知らせで分かりました。
うそだ!と思いましたが、彼と過ごした想い出が走馬灯のように蘇り、ラウンジの椅子で涙が止まらなくなってしまいました。
迎えに来た中国の先生やデニーさんたちが驚いて「なんで泣いているのだ?」と聞くので「佐藤弘和君が亡くなった」と答えると、中国でも
すでに作曲家として知られていた事もあり、そこにいたギタリスト皆が
お悔やみの言葉と一人一人が強くハグしてくれたことが忘れられません。

どうやっても間に合わないので、葬儀でのお別れの言葉を中国から友人に託し帰国してから彼の家に行きやっとお線香をあげに行きました。
その夜の事です。
帰宅してから、なぜか「素朴な歌」でも「小シシリエンヌ」でもなく「青空のむこうに」を弾こうと譜面を出してギターを構えましたが、譜面のメロディが頭の中に鳴っただけでもう譜面が滲みます。何度試しても同じです。

もう7年経つのですがこの現象は変わりません。
勿論、他の人が弾いた物を見たり聞いたりしても、心は少しきしみますが
涙は出ません。

想い出深く好きな曲ですので、いつか演奏したいと思っていますが
まだまだ無理そうです。

実はこの曲が弾けないことが、彼の主題を使って書いた「佐藤弘和の主題と変奏曲」の作曲のモチベーションになっていたりするのですね。

人の心は不思議なものだなぁと感じます。



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