無題

自分の心と体に最も根深く刺さっている(と思っている)“他者から与えられた”傷や痛みがある。

そしてそれが軽微に思えるほどの(事実軽微なのであろう)誰かの傷や痛み、あるいは“自分が誰かに与えてしまった”傷や痛み=罪に伴う後悔がある。

後者は前者を容易く飲み込む。

なのに私は自分にとっての傷や痛みを優先し、それを免罪符に、被害者面をして生きてしまっている。誰かにとっての加害者であるはずなのに、その罪から逃げたいと思ってしまう自分がいる。こうしてここに想いを綴ること自体、自分を曝け出す代わりに許しを乞うという逃避行動なのかもしれない。

何かをとても大切だと思う時、大好きだと思う時、ふとしたきっかけで笑顔になる時、つまり先述の傷や痛みや罪や後悔から一瞬でも気を逸したことを自覚した時、生きていてよいのか分からなくなる。心はとても残酷だ。ひとつの場所に留まっていられない。

私に傷や痛みを与えた人間は、今どこで何をしているのだろうか。そもそも生きているのだろうか。生きているとして、私に傷や痛みを与えた先の未来である今、笑っていたりするのだろうか。私に傷や痛みを与えたことを今でも覚えているのだろうか。それ以前に傷や痛みを与えた自覚が、認識が、あるのだろうか。そういうことを想像して負の感情がぼこぼこ湧き上がるたび、私がかつて傷や痛みを与えてしまった人たちのことを思い、そっくりそのまま真正面から(あるいは真後ろから)ブーメランが帰ってくる。私こそ生きていてはいけない人間ではないかと、自分が今生きているという事実に押し潰されそうになる。

全部なかったことにしたいと思うことは至極簡単である。全て終わらせて無になったら楽になるのかもしれない。だけどそれは、何にも勝る逃避である。だからこそ生きて、全部抱えて続けていかなければならない。


生まれてから今この瞬間までのひとつひとつに誠実な選択ができていたら、もっと胸を張って生きられただろうか。


私はどこまでも弱くて狡い。この期に及んでたられば話をしてしまっている。

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