季語の殺し方3「月」 ~類想からの脱却術

 自然美を代表するものといへば「雪月花」と「花鳥風月」。中でも花と月は両者に含まれてゐるやうに日本的美意識の究極でもある。花見、月見と見るだけで畏敬の対象になる存在は他にはあまりないだらう。富士山なんかはあちこちに富士見といふ地名が残されてゐるけれど。もちろん詩歌でも花と月は最重要テーマである。「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは」と徒然草にあるやうに、咲いてはすぐ散る桜や、満ち欠けのある月の無常観が、日本人向けの興趣なのだらう。「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」なんていふ藤原道長の歌のあるけど。権力者といふのはいつの時代も傲慢で野暮だねえ。詩人はつねに恥ぢらひをもつてゐなくてはならない。

  名月の夜にも炭やく煙かな 松窓乙二

 現代の俳句では、名月なんだから夜に決まつてるだろなんてツッコミが入るかも知れないが、1800年前後の句なのでご容赦を。月の雅に対する煙の俗の取り合はせながら、一つのフレームの中に溶け込んでゐる世界。うつとりするねえ。ちなみに煙と月といへば炭坑節。「あんまり煙突が高いので さぞやお月さん煙たかろ」である。月に同情しつつ、煙突の経済発展の誇り垣間見えて、人間臭くて大好きな歌詞だ。
 月が便利なのは、舞台装置として使へばなんにでも使へるからである。ちよつとした風景+月で簡単に一句ができる。ただそれだけに超抜の一句はなかなか生まれづらいことは説明するまでもないだらう。前述の乙二の句も、僕の好みといふだけで名句かどうかと聞かれたら、返答に窮してしまふ。ヒット狙ひで、いいところに飛べば二塁打といふのが月だ。ヒットの延長がホームランにはならない。そこでバッティングの工夫としては、月をずらすことである。名月や満月とフルスイングしてゐてはバットにもあたらなくなる。満ち欠けの形でいへば上弦、下弦、弓張月、半月。時期でいへば立待、居待、寝待、更待といくらでもある。派生する、月光、月明り、月の嵩、月の輪もあるし、月の入、月の出でも季語になる。桂男、嫦娥、孀娥なんて異称もあるし(僕も調べて初めて知りました。こんなの知つてる人ゐるのか。例句も見つからなかつたぞ)、英語だつてMOON以外の言葉がいくらでもあるはずだ。セーラームーンは秋よりも春の感じがするなあ。まあヒットを打つのが本記事の趣旨ではないのでこれ以上は興味がある人は調べればいいと思ふ。言葉は知らないより知つてゐた方がいいが、語彙に頼るのもまた細い道であることは付け加へておかう。

  三日月がめそめそといる米の飯  金子兜太

 兜太にもこんな句があつた。米粒のかたちと、なかなか米を喰へず痩せつぽちの三日月。これなら文句なくホームランだな。
 仲秋の名月が過ぎた今こそ、月を詠むべし!

(おまけ)
月の句を調べてゐたら「一家に遊女もねたり萩と月 芭蕉」の句の解説を増殖する歳時記で見つけた。「……遊女とのこの話がフィクション(真っ赤な嘘)であったことは、多くの野暮な研究者たちが立証ずみである(清水哲男」。このスマートさが哲男さんらしいなあ。なんだか懐かしくて泣いてしまつた。

 

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