世界の国々シリーズ(4)ボヘミア
ボヘミア王国
ボヘミア王国(ボヘミアおうこく)、ベーメン王国、またはチェコ王国は、中世から近世にかけて中央ヨーロッパに存在し、現代のチェコ共和国の前身となった王国です。神聖ローマ帝国の領邦の1つであり、ボヘミア王は選帝侯(せんていこう:神聖ローマ帝国において、ローマ王(ドイツ王)すなわち神聖ローマ帝国の君主に対する選挙権(選定権)を有した諸侯のこと)の一人でした。ボヘミア王は、歴史的地域としてのボヘミアを中心としてモラヴィア、シレジア、ルーサティアの全域と、ザクセン、ブランデンブルク、バイエルンの一部を含むボヘミア王冠領を支配していました。
前身はボヘミア公国で、12世紀にプシェミスル朝のもとで王国に昇格しました。その後ボヘミア王位はルクセンブルク家、ヤギェウォ朝と移り変わり、最終的にハプスブルク家のものとなりました。王国の首都プラハは、14世紀後半、16世紀末、17世紀初頭に神聖ローマ皇帝の在所となりましたた。
1806年に神聖ローマ帝国が解体されたのち、ボヘミア王領はハプスブルク家のオーストリア帝国の領土となり、1867年にオーストリア=ハンガリー帝国に移行したのちもオーストリアの一部とされました。ただし名目上、公式には、ボヘミア王国は単一の王国として1918年まで存続しました。その間もプラハは、帝国の主要都市の1つであり続けました。国内では、主にチェコ語(ボヘミア語)が話され、貴族の議会でもチェコ語が用いられていましたが、三十年戦争中の1627年の反乱が鎮圧されたのちに禁止されました。それ以降は、ドイツ語がチェコ語と対等に使われるようになり、特に議会では19世紀の「チェコ民族復活」までドイツ語が用いられました。また13世紀の東方植民の際にドイツ人が多数入植した影響で、ボヘミア外縁部のズデーテン地方の都市ではドイツ語が主に使用されていました。王国議会では、国王や時代によって、チェコ語、ラテン語、ドイツ語など使われる言語が変化しました。
第一次世界大戦で中央同盟国が敗北したことで、ボヘミア王国は、オーストリア=ハンガリー帝国とともに解体されました。その旧領は、新たに独立したチェコスロヴァキア第一共和国の中核となりました。
ボヘミアとは?
ボヘミアは、現在のチェコの西部・中部地方を指す歴史的地名。古くはより広くポーランドの南部からチェコの北部にかけての地方を指していました。西にドイツ、東は同じくチェコ領であるモラヴィア、北はポーランド(シレジア)、南はオーストリアに接していました。
この地方は牧畜が盛ん。牧童の黒い皮の帽子に皮のズボンにベストは、オーストリア帝国の馬術や馬を扱う人たちに好まれ、このスタイルは、オーストリアと遠戚関係にあるスペインを経て、アメリカのカウボーイの服装になったといわれています。西欧にも伝わり、芸術家気取り、芸術家趣味と解されて、ボヘミアンやボヘミアニズムという言い方がうまれました。
ボヘミアニズム
ボヘミアニズム(英: Bohemianism)は、自由奔放な生活を追求するライフスタイルを指した言葉です。そうした生き方を実践するひとをボヘミアン(Bohemian)またはフランス語でボエーム(Bohème)と呼び、そうした人々が多く住むコミュニティーをボヘミア(Bohemia)と呼びます。
「ボヘミアニズム」の起源
本来は「ボヘミア人」という意味の「ボヘミアン」という言葉ですが、「定住性に乏しく、異なった伝統や習慣を持ち、周囲からの蔑視をものともしない人々」という意味でフランスで使われました。その起源は、15世紀にまでさかのぼります。その当時フランスに流入していたジプシーが、主にボヘミア地方からの民であったことがその背景にあります。 また現地では「ボヘミア人」のことを「ボヘ・チャン」と呼んでいました。
19世紀の中ごろ、フランスの小説家アンリ・ミュルジェール(Henri Murger)が小説『ボヘミアン生活の情景』 (フランス語: Scènes de la vie de bohème) の序文で、
「ボヘミアン」とは定職を持たない芸術家や作家、または世間に背を向けた者のことである
と宣言していました。この小説はプッチーニのオペラ『ラ・ボエーム』にもなり、以降ボヘミアンとは、伝統的な暮らしや習慣にこだわらない自由奔放な生活をしている芸術家気質の若者を指す言葉となっていきました。そのニュアンスとしては、良い意味では「他人に使われることなく質素に暮らし、高尚な哲学を生活の主体とし、奔放で不可解」という含意、悪い意味では「定職がなく貧しい暮らしで、アルコールやドラッグを生活の主体とし、セックスや身だしなみにだらしない」という含意があります。
ボヘミアの名称
ボヘミアをチェコ語ではチェヒ(チェコ語: Čechy)と呼び、チェコ共和国(チェコ語: Česká republika)、通称チェコ(チェコ語: Česko)をチェヒとも呼びます。由来は6世紀頃までに形成されたチェコ人(チェコ語: Češi)にあり、意味は「『人々/光』の土地」。
ラテン語における『ボヘミア』(ラテン語: Bohemia)の呼称は、古代にボヘミアからモラヴィア、スロバキアにかけての地域に居住していたケルト人の一派、ボイイ人に由来しています。ボヘミアの意味は「『(戦士の)人々』の土地」と考えられています。ドイツ語では、ベーメン(ドイツ語: Böhmen)と言う。
歴史
ケルト人
古代にはボイイ人(古代ギリシア語: Βόϊοι、ラテン語: Boii)がボヘミアからモラヴィア、スロバキアにかけての地域に住んでいました。
ローマ帝国との戦い
紀元前9年、大ドルスス率いるローマ軍団がマルコマンニをボヘミアに追いやった。マルコマンニ王のマルボドゥウスの治世下では、同じゲルマン系で北方のケルスキ族のアルミニウスと不仲であった為、トイトブルク森の戦いには参加せず、中立を保った。マルボドゥウスの死後、強大化したマルコマンニはマルクス・アウレリウスとコンモドゥスの治世下でマルコマンニ戦争(162年 - 180年)を起こし、ローマ帝国衰退のきっかけとなりました。
チェコ人の形成
567年、アヴァール(アヴァール (Avars) は、 5世紀から9世紀に中央アジアおよび中央・東ヨーロッパで活動した遊牧民族)がパンノニア平原にアヴァール可汗国を建国すると、その侵攻を受け、6世紀以降、西スラヴ人が移住し、モラヴィアの西スラヴ人とともに現在のチェコ人となりました。7世紀始めにサモ王国(623年-658年)が建国されました。
プシェミスル家
9世紀頃にプシェミスル家のもとで公国を形成しました。10世紀以降はローマ帝国に属して政治的に現在のドイツと結びつきました。1003-1004年にピャスト朝を挟みます。
1198年にボヘミア公オタカル1世はローマ帝国領内では当時まだほとんど存在しなかった王号をもつボヘミア王となり(ボヘミア王国、1198年 - 1918年)、高いステータスを獲得するが王権は弱く、実質上は歴代の王の後ろ盾となったローマ皇帝などのドイツ人勢力の傀儡として存在していました。
チェコ及びボヘミアは、その地理的な重要性から中世から近世にかけては「ボヘミアを征する者は、ヨーロッパを征す」とも言われていました。1241年、モンゴル帝国がポーランドに侵攻した際には、ボヘミア軍を送り支援したが、東隣のモラヴィアのオロモウツまでモンゴル軍に迫られました(オロモウツの戦い)。1245年にはガリツィア軍にポーランド王国・ハンガリー王国が加わり、ヨーロッパ側の最前線であったハールィチ・ヴォルィーニ大公国(現在のウクライナ。当時、ルーシと呼ばれた地方)へ侵攻して属国化しました(ヤロスラヴの戦い)。1246年 ライタ川の戦いでハンガリー王国のベーラ4世とハールィチ・ヴォルィーニ大公国の連合軍が、オーストリア公フリードリヒ2世を敗死させました。1248年、バーベンベルク家の断絶につけこんだボヘミア王オタカル2世がオーストリアなどの支配権を獲得。1260年、クレッセンブルンの戦いでハンガリー王国のベーラ4世がオタカル2世に敗れました。1278年、マルヒフェルトの戦いで、ボヘミアのオタカル2世は、ローマ王ルドルフ1世とラースロー4世の連合軍に敗れ、ハプスブルク家が欧州の有力な勢力となりました。
ルクセンブルク家
1331年、帝国郵便の発祥地ロンバルディアのベルガモからは、王が都市を献じられています。プシェミスル家断絶後の1310年からはドイツ貴族ルクセンブルク家がボヘミア王を受け継ぎました。ローマ皇帝カール4世となったルクセンブルク家のボヘミア王カレル1世は、1348年にプラハにプラハ大学を設立してボヘミアに学問を根付かせました。中世から近世にかけてはプラハを中心に学問、とくにキリスト教の学者が多く活躍した。
15世紀には、プラハ大学からヤン・フスが出て宗教改革に乗り出しました。1410年に始まったグルンヴァルトの戦いでヤン・ジシュカ率いるボヘミア義勇隊が、それまでチェコを実質支配していたドイツ人を追放し、ポーランドのフス派プロテスタントと協力して戦い抜いたことはスラヴ民族主義の萌芽とされています。外圧により1415年にフスがジギスムントに処刑されて宗教改革が失敗に終わると、1419年のプラハ窓外投擲事件(1419年と1618年に起こったボヘミア王国(現チェコ)の神聖ローマ帝国に対する反抗)をきっかけにフス戦争が始まりました。
ハプスブルク家
ボヘミアは、16世紀からはルクセンブルク家断絶後にその所領を獲得したハプスブルク君主国の支配を受けました。三十年戦争(1618年 - 1648年)では、1620年には白山の戦いでハプスブルク軍相手にたった半日で敗北した結果、チェコのスラヴ人貴族は完全に根絶され、ドイツ人貴族のみとなりました(チェコ貴族の入れ替え)。ヨハン・アモス・コメニウスの属した共同生活の兄弟団というプロテスタントの一派が三十年戦争でこの地を追われ、二度とここに戻ってくることができなかったことはヨーロッパの精神史の中でよく知られた事件となります。三十年戦争後期にスウェーデンに占領されました。1648年、ヴェストファーレン条約によってハプスブルクに返還され、絶対王政下に置かれました。しかし、この戦争を経て、金融センターであるイギリスとオランダへ接近していきます。
19世紀には、オーストリア帝国の一部となりました。19世紀前半には、チェコ人の民族運動が盛り上がり、次第にドイツ人から自立しようとする動きが高まりました。1899年、ボヘミアはモラヴィアをともないオーストリア・ハンガリーに反乱しました。翌年にかけてウィーンの手形交換所はその交換総額を倍以上に増やしました。
チェコスロバキア
1918年10月28日に、1004年以来の914年ぶりにようやくドイツ人の支配から離れチェコスロバキアとして独立すると、新たに独立したチェコスロバキアの中心地域となりました。翌10月29日にはドイツ人帝国議会議員らがエーガラントと北ボヘミアをドイツ系ボヘミア州とする宣言。10月30日には、シレジア、北モラヴィア、東部ボヘミアに「ズデーテンラント州」が形成された。
1918年11月に成立したドイツ=オーストリア共和国政府は、ドイツボヘミア州、ズデーテンラント州、オーバーエスターライヒ州に区分し、領有権を主張していました。11月には南部ボヘミアと南部モラビアでベーマーヴァルトとツナイムの両自治政府が作られましたが、11月20日にはチェコ軍団がドイツ系諸政府域への侵攻を開始し、12月18日までにドイツ系諸政府は解体されました。
ドイツ
1938年9月30日のミュンヘン会談では宥和政策(現状を打破しようとして強硬な態度をとる国に対して、譲歩することで摩擦を回避していく外交政策。 ナチス‐ドイツの要求を認めたミュンヘン会談がその典型)を取るイギリスのネヴィル・チェンバレン首相、フランスのエドゥアール・ダラディエ首相がズデーテン地方のドイツ編入を容認しました。1939年3月1日にチェコスロバキアが解体され、ベーメン・メーレン保護領となりました。
1945年2月のヤルタ会談でソ連の要求によりドイツ人強制移住方針が固まりました。
チェコスロバキア
1945年5月、ベネシュ布告。8月2日のポツダム協定でドイツ人追放が正式決定しました。1990年10月30日にドイツ再統一。
チェコ
1993年にスロバキアと分離し、チェコとなった。1997年1月21日、ドイツ=チェコ和解宣言。
出身者
フランツ・カフカ(小説家)
マックス・ブロート(作家、文芸・音楽評論家、作曲家)
フランツ・ヴェルフェル(小説家、劇作家、詩人)
ベドルジハ・スメタナ (作曲家。チェコ国民楽派およびボヘミア楽派の始祖。代表作『わが祖国』はボヘミアの風景を題材としています)
アントニン・ドヴォルザーク (作曲家。ボヘミア楽派のひとり。交響曲第1番から第9番が代表作として知られるが、劇的序曲「フス教徒」やチェコ組曲などボヘミアを題材とした作品があります。
ボヘミア楽派
ボヘミア楽派(英語:Bohemian school)は、ボヘミアにおける作曲家のうち、民族性・地域性と国際的水準との両立を目指した人材の総称。17~18世紀の「旧ボヘミア楽派」(Old Bohemian school)と、19~20世紀初頭の「ボヘミア楽派」の二つがあり、一般的には後者のことを指しています。
19世紀のボヘミア楽派は、シュクロウプによる国民オペラの模索を経て、スメタナによって、標題音楽と歌劇、性格的小品の創作を中心とする方向性が確定されました。フィビフはこの方向にわりあい忠実に従い、一方でドヴォルザークが最晩年になるまで、(室内楽や交響曲、協奏曲といった)絶対音楽の分野において、民族主義的な表現の可能性を追究しました。しかしながら最晩年のドヴォルザークは、交響詩とオペラの作曲に戻っていきます。20世紀初頭にドヴォルザーク周辺の、従来の国民楽派の発想に飽き足らなくなった作曲家を軸にして、ボヘミア楽派は崩壊していきました。ヤナーチェクとノヴァークは、ボヘミア中心主義に疑問を呈してモラヴィアの民族音楽を調査・分析し、スクとオストルチルはごく初期の例を除いて国民楽派から離れ、表現主義音楽へと接近していきました。フェルステルは教師として同時代の新ドイツ楽派への接近を推奨し、ハーバはノヴァークとシュレーカーの耽美主義を経て微分音の利用に進みました。マルチヌーはフランス新古典主義音楽の洗礼を受けています。こうしてボヘミア楽派の後継者たちは、西欧楽壇のモダニズムやアヴァンギャルドに合流していきます。
参照
※1
※2
https://en.wikipedia.org/wiki/Bohemia Bohemia
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