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三十年戦争(1618–1648年)

三十年戦争とは?

1618年のベーメンの反乱から始まったドイツのキリスト教新旧両派の宗教内乱からヨーロッパの各国が介入して国際的な戦争もの。1648年、ウェストファリア条約で講和し、主権国家体制の確立をもたらしました

ルターによって1517年に宗教革命が始まります。その100年後に起こった三十年戦争(1618–1648年)は、最後にして最大の宗教戦争。ドイツ内の新旧両派の対立が、ベーメンでの事件を期に全ドイツに広がり、さらに西ヨーロッパの新教国、旧教国がそれぞれ介入したことによって大規模な国際紛争となります。そして、フランスが旧教支援から途中で新教支援に転換したように、単なる宗教戦争にとどまらず、ヨーロッパの覇権を巡る国際的な戦争へと変質していきました。また当時のヨーロッパの封建制の最終的で全面的な危機である「17世紀の危機」の中の最も重要な動乱でした。この戦争の形態は、火砲(鉄砲)の使用による集団戦という近代的なものになっていましたが、その兵力は各国王も領主も傭兵に依存しており、国民軍は編成されていませんでした

三十年戦争の経過

三十年にわたる戦争の過程は4段階に分けることができます。当初は旧教徒と新教徒との対立軸でしたが、第2段階からスペイン=オーストリアのハプスブルク家フランスのブルボン家という国際的な対立軸に転換していきます。

第1段階(1618–23年:6年間)

神聖ローマ皇帝フェルディナント2世

1618年、神聖ローマ皇帝フェルディナント2世によるカトリック強制に対しベーメン(ボヘミア、現在のチェコ)の新教徒がベーメンの反乱を起こします。それ以前から成立していた旧教諸侯の「同盟」(リガ)と、新教諸侯の「連合」(ルター派とカルヴァン派が連合したのでユニオンという)との内戦となりました。ボヘミアは新教徒のファルツ(プファルツ)選帝侯を国王に選び、旧教徒側と戦いました。旧教徒側にはスペイン新教徒側にはオランダが支援し、内戦は国際的な戦争に転化していきました。当時、スペインとオランダは、オランダ独立戦争を継続していました。内戦が始まった段階では、フランスは旧教徒を支援していましたが、それは間接的なものにとどまっていました。この当初の戦争は、1623年、旧教徒側の勝利に終わります。

第2段階(1625–29年:5年間)

1625年、デンマーク王クリスチャン4世が、イギリス・オランダの資金援助を受け、新教徒擁護を掲げてドイツに直接介入しました。皇帝側は、ティリの指揮する旧教徒同盟軍やヴァレンシュタインの傭兵部隊の活躍でクリスチャン4世軍を撃退しました。フランスはこの段階で、新教徒・デンマークに対する間接支援に転じました。なおこの時、イギリスのチャールズ1世は、スペインとの戦費を徴収しようとしたことに反発した議会が権利の請願(1628年)を出しています。

第3段階(1630–35年:6年間)

ブライテンフェルトの戦いにおけるグスタフ2世アドルフ

1630年、スウェーデン王グスタフ=アドルフは、フランスの資金援助を得て、新教徒擁護、神聖ローマ皇帝の北上阻止を名目にドイツに侵入しました。1632年、リュッツェンの戦いでスウェーデン軍は勝利しましたが、グスタフ=アドルフ自身が戦死皇帝側のヴァレンシュタインは、謀反の疑いをかけられ暗殺され、新旧両派の和約が成立。この間、皇帝側は新教徒の拠点の一つマクデブルクを包囲攻撃し、旧教側兵士による残虐な破壊行為が行われました(1630年11月–1631年5月のマクデブルクの戦い)。

第4段階(1635–48年:14年間)

1635年、フランス(ルイ13世、宰相リシュリュー)が、ドイツ新教徒側の劣勢を挽回するため、直接ドイツに進撃。スウェーデンも同調しました。それに対し、旧教側では、スペイン軍(フランドル軍)も直接介入しました。しかし、1640年にスペインでカタルーニャの反乱が起き、同年にポルトガルも独立して形勢がスペインに不利になりました。1643年、フランス北部ロクロワの戦いでフランス軍とスペイン軍が直接交戦、戦況は一進一退で決着がつきませんでした。1644年から講和交渉が始まり、1648年のウェストファリア条約でようやく講和が成立しました。フランスとスペインはなおも戦争を継続しており、両国が講和するのは、フランスのフロンドの乱が終わった後の1659年、ピレネー条約の締結によって。

三つの対立軸

三十年戦争には、三つの対立軸があり、それが時期的に複雑に絡み合っています。

第一の対立軸:旧教徒 vs 新教徒

1555年のアウクスブルクの和議でプロテスタントの信仰が認められましたが、それは「領主の信仰、その地に行われる」のであって、領邦君主にとっての信仰の自由であり、領民には信仰の自由はありませんでした。旧教を掲げる領邦は「同盟」を結成し、新教側は「連合」を結成していました。新教「連合」としては、ベーメンの新教徒の反乱を支援せざるを得ませんでした。

第二の対立軸:神聖ローマ皇帝 vs 領邦君主

ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝は、同時にドイツ王として君臨していましたが、実際には現地ドイツでの支配力は弱く、領邦の独立性が強い状態でした。フェルディナント2世は、新教弾圧を通じて皇帝権力の強化を図りました。各領邦の君主は、神聖ローマ皇帝の力が強くなることを警戒しました。領邦の中で一貫して皇帝を支持したのはバイエルンだけで、カトリック領邦でも皇帝に与しない者もいました。

第三の対立軸:ハプスブルク家 vs ブルボン家

リシュリュー 権謀術数を駆使しフランス王国の国益を追求する。怜悧な宰相

デンマーク、スウェーデンが新教側に介入しましたが、その意図は宗教的動機より、北ヨーロッパでの覇権を目指した行動でした。旧教国フランスのブルボン家は本来なら新教勢力を支援するはずはないと考えられるが、現実的な国際政治家リシュリューは「建前より本音」をとり、ハプスブルク家を叩く好機ととらえ、直接出兵してスペイン軍と戦いました。これもヨーロッパの覇権を巡る対立でした。

以上の三つが基本的な対立軸であるが、スペインとオランダがそれぞれ旧教徒と新教徒を支援するために軍隊を派遣し、現地でも闘ったのは、宗教対立に独立戦争が絡んだ国際的な対立軸として加えることが出来ます。

戦争の実態

三十年戦争は、ドイツの都市と農村を荒廃させ、それによってドイツの人口は1600万から約3分の1が減少して1000万人となりました。当時の軍隊は、国民軍ではなく、新教側も旧教側も傭兵に依存していたため、戦いは決着がつかず(勝敗が決まり、戦争が終われば傭兵は失業してしまうので!)、略奪行為が横行しました。その戦争の惨禍は、文学では自ら体験したことを書いたグリュンメルスハウゼンの『阿呆物語』、絵画では、ジャック=カロの『戦争の悲惨』などが伝えています。また、ドイツの文学者シラーは、『三十年戦争史』を著しています。三十年戦争のさなかの1625年、オランダのグロティウスは『戦争と平和の法』を著し、自然法の思想に基づいた戦争の解決を説き、当時大きな反響を呼びました。グスタフ=アドルフも戦陣でこの本を読んだそうです。

三十年戦争の意義

三十年戦争は、ドイツ領邦間の宗教戦争から始まりましたが、ヨーロッパの各国が介入することによって国際的な戦争となり、その結果、封建領主層は没落し、ドイツには、神聖ローマ帝国という中世国家が解体されプロイセンとオーストリアという主権国家が形成されることとなりました。同時に、15世紀末に始まったヨーロッパの主権国家体制が確立します。ウェストファリア条約は、主権国家間の条約という意味で最初の国際条約でした。。

主権国家体制

16–17世紀のヨーロッパに成立した、主権国家間の国際関係のあり方を主権国家体制といいます。現代の国家間の外交関係や国際機関の原型となったものです。16–
17世紀までのヨーロッパにおいて、徴税機構を中心とした行政組織と常備軍をもち、明確な国境内の領域を一個の主権者である君主(国王)が一元的に(中央集権体制的に)支配する「主権国家」と、それらの国家間の国際関係が形成されました。

なお、現代の国家間の外交のあり方、外交官を大使や公使として交換し、常駐させるやり方は、15世紀のイタリアのヴェネツィア共和国で始まっています。また、国際紛争の解決のために、各国の代表が国際会議を開いて調停し、条約を締結して各国に遵守義務を負わせるという近代的な意味の国際会議は、三十年戦争の際のウェストファリア会議とその成果である1648年のウェストファリア条約が最初。

ジャック=カロが描いた三十年戦争

カロの肖像(ファン・ダイクによる。1626年頃)

三十年戦争の同時代に生きたフランスの銅版画家ジャック=カロ(Jacques Callot, 1592年–1635年3月24日)は、戦争の実際に遭遇して、『戦争の惨禍と不幸』という連作を残しています。


「農家の略奪」
傭兵たちが戦争の間に、農家を略奪しています。暖炉に農民が吊されています。


「被絞首刑者の生(な)る樹」
略奪を働いた傭兵を懲罰しています。


「拷問」
ナンシーでの新教徒に対する拷問。右手に見えるのは「吊し落とし」とわれる拷問器具。

ジャック=カロ(1592-1635)はフランス、ロレーヌ地方のナンシーで生まれ、ローマとフィレンツェで銅版画を学び、パリではルイ13世の御用銅版画師として活動しました。1621年にナンシーに戻ってそれ以後はほぼその地で過ごし、三十年戦争に遭遇しました。また当時は、フランス国内でもまだ新教徒に対する弾圧が続いており、ナンシーでも新教徒が捕らえられ拷問を受けていました。それをつぶさに見たカロは、1633年に銅版画の18の連作『戦争の惨禍と不幸』を制作しました。

参照





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