自分史的なクリッピング史料

連日大谷選手の活躍にメディアは躍起になっている。長いシーズンで好不調もあるだろうから、一喜一憂せず、無安打であっても、結果がどうであっても暖かく見守るしかない。勿論その活躍に勇気をもらう人たち、特に子どもたちは多いのかもしれない。ましてや、今年はパリオリンピックもあって、アスリートたちに注目の目が集まるのは仕方がないことでもある。でも選手は懸命に競技に取り組んでいるだろうから、それぞれの領域でこれまたその活躍を静かに応援して行くことだと思う。こうした人たちは総じて輝いているほんの一握りの人。その活躍が羨望の的であったとしても、一方で陰を抱えて苦しんでいる人たちもいる。そうした人たちにはスポットは当たらないことが多いけど、そうした事実もあるということを頭に入れて記事を読むことが多い。朝日新聞はそういう記事は大好きだから、結構な割合でそうした記事に出会える。

2014年7月26日 朝日 子に「最期の家」を
ホスピス建設 娘亡くした父奔走
元看護師が遺産1億円寄付 夢へ前進 「家族と過ごし、楽しい思いを記憶に」

この記事は自身の6歳の次女を脳腫瘍で亡くした経験から、子どもホスピスを作りたいと思っていた父親に、元看護師が残した遺産、1億円が届いたというリードで始まる。

川崎市幸区の田川さん(当時56)がホスピス設立を思い立ったのは、次女の死がきっかけだったとある。1997年9月に、脳幹に腫瘍が見つかって余命半年と宣告されて、神奈川県こども医療センターに入院したと。実は自分の三男も重度の身体障がい者認定を受けて、このこども医療センターに毎週木曜日に通院していた。ある時、父親も参加して欲しいと言われ会社の有休をとって医療センターに行くと、そこには6、7家族の重度障がいの認定を受けた親たちが集まって、それぞれの苦労を分かち合うという機会だった。自分たちだけでなく、同じように苦しんでいるという家族との面談機会。その中には、もう少しで成人だろうという重度障がいの息子さんを抱っこするお母さんがいた。当時見る限り、それなりに年齢を重ねている様子で、そこまで大変な想いをしてきたのだろうということが分かった。我が家は結局2歳数か月で亡くなってしまったので、以来医療センターを訪れることはなかったけど、それぞれの両親の気持ちというのが本当に痛いほど、或いは言葉にあらわせないほど、心に刻まれた時間だった。

田川さんの娘さんも、面会時間の終了時に「帰らないで」と泣きじゃくったといい、その時間は他の涙もたくさん流れていた様子だ。我が家と違って、意識というものは子どもなりにあって、言葉を交わせることが、その辛さや苦しみを倍増させるのではないかとも思う。田川さんは娘さんが亡くなった後、もっとできることがあったのではと悩む。そして2003年、知人とNPO法人「スマイルキッズ」を立ち上げた。そして2008年に医療センターの近くに家族の宿泊施設「リラのいえ」をオープンさせた。その取り組みの中で、面会時間の制限もなく、子どもと家族が自由に過ごせる場所をつくりたいとホスピスへの思いが募っていったと記されている。

2013年3月。藤沢市の石川さんという方から、口座に2500万円の振り込みがあった。すでに亡くなっていたので、代理人の弁護士を訪れると、生涯独身だった看護師の石川さんが「何か子どものために役立ちたい」と思っていたとのこと。2012年に心臓手術の後に帰らぬ人となった石川さんの退職金や自宅の売却収入などの財産について遺言に子ども医療センターの親子のための施設に遺贈をと書き残していたとのこと。

そして田川さんと弁護士の方の話し合いもあって残りの8000万円も後に寄付された。そして田川さんは子どもホスピスの設立に向けて走り出す。この記事では3〜5家族程度が過ごせる施設をと考えていた様子だけど、今Webで見ると、11部屋まで拡大していた。「楽しい思いを記憶にとどめたまま、子どもには最期を全うして欲しい」という気持ち。これはその親になって見なければ分からないと思う。だから安易に「そうなんだ」と相槌も打てない。でも自分は重度の障がい者出会った三男の夢を見ることがある。普通に歩いておもちゃで遊んでいるようなシーンなんだけど、それは決まって楽しそうな姿。お墓参りではその語りかけるような記憶もだいぶ遠のいてしまったけど、長男、次男が一通り成長した後は専ら三男のことを思う気持ちが強くなる。この記事は本当に自分の心に刻まれる記事。子ども医療センターのことを忘れないためにも大切にクリッピングしてある。

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