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店の廃棄パンを食べたい

パンと目が合ったのは、あれが初めてだった。

冬場になってから僕は毎日近所のショッピングモールのフードコートにいる。タダで暖房の恩恵を受けられ、タダで水を飲むことができる。そこにいれば、家でエアコンを使わずに済むし、水道水を沸騰させて飲まなくてもよくなる。光熱費も水道代も節約できる素晴らしい場所だ。

その日は、タダで借りた図書館の本を読んでいた。数ページ読んだところで激しい眠気に襲われる。基本的に、家で昼食を済ましてからすぐにショッピングモールに向かうのでこれはよくあることだった。特に問題はない。フードコートではタダで寝ることができるし、タダで起きることもできる。僕はタダ寝タダ起きをして、再び本を読み始める。そしてまた眠くなり、タダ寝タダ起きをする。これを繰り返しながら、僕は閉店までフードコートにへばりつく。家に帰る頃にはルビン壺くらいお腹がへこんでいるが僕は朝と昼しかご飯を食べないので明日の朝まで空腹は続く。

営業時間終了のアナウンスが流れ始めたら、作業をこなすようにイヤホンを付け、ダウンを着て、エスカレーターで下に降りる。出口の方へ進んでいくと通路の真ん中に台車が置いてあり、そこにはいくつかのゴミ袋が乗っていた。出口の横にあるパン屋のゴミだ。僕はほとんど無意識的に袋の中を見て素通りしたが、その直後、後ろを振り返る。

衝撃を受け、その場で立ちすくんだ。

パンが、大量のパンが、袋にパンパンに詰まっている…!

その時僕は完全にパンと目があった。

たくさんの廃棄パンがこちらを見ている。ゴミ袋に囚われた、かわいそうな大量のパン。段ボールの箱に入れられて捨てられた子猫を連想させるような、そういうパンだった。

次第に周りの景色はぼやけ、視界の中には僕と廃棄パン以外に何もないように思えた。しばらく僕たちは見つめ合った。僕とパンだけの空間。特に何も起こらず、背景は元に戻った。

あのパンをどうにか自分のものにしなければならない、そんな使命感に駆られつつ、若い店員の目線を感じた。完全にこちらを見ていた。そのことに気づいた時、僕は無性に腹が立った。

お前は見るな。

目を見開きながら心の中でひたすら唱えると、店員に気持ちが届いたのか、視線をそらしてゴミ袋を縛り始めた。

それから僕は少し移動し、違う角度でゴミ袋を見た。

あのパンはどこへ連れて行かれるのだろう。何としてでも救いたい

お前『救いたい』と言ったか?魔王に捕まったお姫様を助ける勇者にでもなったつもりか?それは廃棄パンを持ち帰ることを正当化するための表現だろ?『救いたい』んじゃなくて『食べたい』んだろ?お前はただの、いやしい『餌ねだり』だ。


僕の脳は麻痺していた。それは空腹によるものだった。毎日、十分な食事ができていないため、フードコートから帰る頃には判断能力が鈍るほどお腹が空いているのだった。

若い店員が台車を押し始め、僕はその後をつけていった。既に1回見られているので、もう見られるわけにはいかない。

店員が向かった先に『関係者以外立ち入り禁止』と書かれた扉があった。おそらく、奥にゴミを捨てるスペースがあるのだろう。

店員は扉を背中で押して、ゆっくりと中に入っていた。続いて、台車が扉の奥に引きずりこまれていくのが見えた。

僕はいつの間にか走り出していた。そしてその勢いのまま、扉に思いっきりダイブした。

すると、扉の先は密林の中だった。

いったいこれはどういう…扉を開けたら密林…?
ショッピングモールの扉を開けたら密林の中…?
ナルニア国物語みたいなこと?
雪に覆われた国とタンスが繋がってたみたいな?
ナルニア国物語的展開が待っているってこと!?
ショッピングモールの扉の向こうで!?
これから倒しに行くってこと!?
接客の悪い店員を石にする『クレーマーの魔女』とか倒しに行くの!?
いや、でも僕はあの店員を追ってここに迷い込んだ…本来ならたどり着かないこんな場所に…ということは、不思議の国のアリスみたいなこと?
店員追って扉開けたら密林の中…
うさぎ追って穴に落ちたら不思議の国…
ねえ、これってやっぱり不思議の国のアリスってこと!?
アリスが、チェシャー猫や帽子屋とかハートの女王に会っていくように、僕はこれから一癖もふたくせもある愉快なクレーマーたちに会っていくってこと!?
いや、でも僕はあの店員を追ってここにやってきたというよりは、あのパンを追ってやってきた…というのが正しいかもしれない…食べ物を追ってよくわからないところに…ということは、おむすびころりんみたいなこと?
転がるおむすび追って穴に落ちたらネズミの屋敷に着いたみたいに、廃棄のパン追って扉開けたら密林の中にいる!!
この密林を抜けたところに、クレーマーがたくさん住んでいるシェアハウスがあって、そこで、企業からお詫びの品として頂いた菓子折りをたくさんご馳走になって、お詫びの品で頂いたQuoカードをお土産にもらって帰れるってこと!?
…ってそんなことより店員はどこだ?
あいつがゴミ捨て場に辿りつく前に、あのパンを回収しなければ…!

おい、しょうもない小芝居をやめろ。うっとおしい。鼻につくんだよ。


木々の隙間に店員の姿が一瞬見えた。奥の茂みで台車を押してどこかに向かっているようだった。

もうあんなとこまで…早く追わないと…!

でたらめに生い茂る草木を掻き分け店員がいた方へ進み続けると、少しずつ呼吸は荒くなり、「ハァ…ハァ」という息に合わせて僕は「パン…パン…」と言っていた。

ハァ…ハァ…パン…ハァ…ハァ…パン…ハァ…ハァ…パン…ハァ…ハァ…パン…ハァ…ハァ…パン…パンハァ…ハァ…ハァ…ハァ…パン!…パン!パン!…パン!パン!…パン!ハァ…ハァ…パン!…パン!パン!…パン!ハァ…ハァ…パン!…パン!パン!…パン!パン!…パン!パン!…パン!パン!…パン!パン!…パン!パン!…パン!パン!…パン!パン!…パン!ハァ…ハァ…パン!…パン!パン!…パン!パン!…パン!パン!…パン!パン!…パン!パン!ナ…パン!パン!…パン!パン!…パン!パン!…パン!ナハァ…ハァ…パン!…パン!パン!…パン!パン!…パメン!パン!…パン!パン!…パン!パン!…パン!…パヨン!…パン!…パン!…パン!…パン!…パン!パン!…パミン!パン!…パン!パン!…パン!パン!…パン!パ!ン!…パン!

そうだ。走れ。走り続けろ。走って走って、逃げ続けろ。とにかく遠くへ、遠くに行け。今いる場所からずっと遠くに行ってみろ。お前はそこで、いや、そこでもまた、結局、絶望に打ちひしがれるだろうがな。


視界がだんだん明るくなり、目に映っている自然と光の割合が少しずつ逆転していく。光に向かって走る自分はボールを追う犬のようで、密林の果てが見えてくると、僕はますます犬になった。

ハァ…ハァ…パン!…パン!ワン!…パン!ハァ…ハァ…パン!…ワン!ワン!…パン!パン!…パン!ワン!…ワン!ワン!…パン!マン!…ワン!ダイレクション!ワン!…パン!マン!

密林を抜けるとそこには青い空と黒い火山があった。

なるほど…あそこかゴミ捨て場ってわけか…噴火口にゴミを放り投げて自然の力で燃やしてるんだな……あの店員…火力発電に協力しない気だな?まあそんなことはどうでもいい、早く店員に追いつかなきゃ…!

ごつごつとした山の斜面を全速力で駆け上がる。

急げ!捨てられてしまう前に奪うんだっ…!!!!

17秒くらいで疲れたから早歩きで登ることにしたよ。途中で店員が見えてきたが、マイペースで登り続けた。そして、ようやく山頂に着いた。僕がついたころにはもう、店員は台車に乗っていたゴミ袋を持ち上げて噴火口に近づいていた。

ああああああ!!!!なんでもっと早く登らなかったんだ!!このままじゃ間に合わない!!

うるせえな。騒ぐなよ。自分でもわかってたんだろ?こうなることくらい。わざとやったんだよな?ドラマチックに演出したかったんだけなんだろ?なあ、お前の思い描いてるエンディング、俺に見せて見ろよ。


僕は店員に向かって走りながらこう叫んだ。

やめろっーーーー!!!!

普通だな。『こう叫んだ』という前フリが機能しないほど普通の叫びだ。早くお前の思い描いてるエンディング見せてくれよ。お前が望むエンディングをよ。


店員はこちらを向いたが、その時にはもう3つのゴミ袋を手放していた。そして僕は『関係者以外立ち入り禁止』の扉に向かってダイブした時と同じように噴火口に飛び込んだ。

僕とゴミ袋はマグマに向かって落ちていく。次第に周りの景色はぼやけ、視界の中には僕とゴミ袋以外に何もないように思えた。それは、さきほど体験したパンと目が合った時と同じ現象だった。そして次の瞬間、3つのゴミ袋の縛りがひとりでにほどけていき、中から大量のパンが溢れ出た。ゴミ袋から出てきたパンは僕に向かって飛んできて、たくさんのパンを全身で浴びることになった。そのうち周りはパンだらけになり、それが一緒に浮遊しているようで、何とも言えない幸福感に包まれていく。すると下から1つのパンがゆっくりと僕に近づいてきた。

あの時、一番最初に目が合ったパンだ。

僕にはそれがすぐに分かった。今思えば、出会う前から僕たちはもう結ばれていたんだと思う。君は運命のパンだ。やってきたパンを両手で掴み、その感触を確かめる。それは、自分の変態性を呼び覚ますような柔らかさだった。僕はまもなく、このパンを食べることができる。僕たちは両手を繋ぎ地面との平行を保ったまま何度も回転した。そうすることで僕らの喜びを世界に知らしめた。

さあ、食べよう。

ようやくその時は来た。いったいどれほどこの瞬間を待ちわびたか。パンを少しずつ顔に寄せ、ゆっくりと目を閉じ、そして優しく吸い付くように噛みついた。

うえっ…

鼻の奥から薬品の匂いがする。そして、急に体を熱気が包み、銃を乱射するように全身の毛穴から汗が吹き出る。目を開けると周りの景色は元に戻っており、僕は噴火口の中を下降していた。そして鼻の先にはあの愛おしいパンではなく、ぐしゃぐしゃになったほこりまみれの掃除用のシートがあった。思わず僕はそれを手放す。周りに散らばっていたはずのパンはなく、代わりにたくさんの汚ならしいゴミが僕と一緒に落下している。まもなく僕たちは自然の焼却炉のえじきになった。

ああっ…!

気付くと僕はフードコートの中で座っていた。死ぬ前と同じ量の汗が流れている。スマホで時間を確認して営業時間終了まであと一時間だと知る。

閉店のアナウンスを待つことなくエスカレーターで下に降りる。今日はもうフードコートにいてはならないような気がした。出口の方へ進んでいくと、さきほど見た光景と全く同じものを目にする。通路の真ん中に台車が置いてあり、そこにはいくつかのゴミ袋が乗っていた。出口の横にあるパン屋のゴミだ。僕はほとんど無意識的に袋の中を見て素通りしたが、うしろは決して振り返らなかった。


小さい頃からお金をもらうことが好きでした