著書紹介「細川興秋の真実」髙田重孝著

      細川興秋の真実   ガラシャの信仰を受け継いだ人々
             髙田重孝著
 

細川興秋の真実・表紙
薬師如来像(上)興秋所用の「関の兼元(孫六)大小揃い(下)
明智光秀・細川ガラシャ・細川興秋・細川興季の子孫・中村社綱氏(左)・天草市南新町
髙田重孝・著者(右)


長岡与五郎宛て 1621年(元和7)5月21日付け 細川忠利書状
熊本県立美術館所蔵

2021年『細川興秋の真実』刊行
ガラシャの信仰を受け継いだ人々
小笠原玄也関係のイエズス会史料の中に1615年(元和元)6月6日、大坂の陣の責任を取らされて切腹をしたはずの細川ガラシャの次男・細川興秋の実存を指摘、細川興秋の天草への1635年(寛永12)の避難までの21年間の追跡調査を20年かけて証明した。 

興秋に関する「長岡与五郎宛て1621年(元和7)5月21日付け細川忠利書状」と、興秋自筆の2つの書状の筆跡鑑定により、2つの書状の間にある27年の時が、興秋の生きていた歴史の証拠と証明された。イエズス会史料と状況証拠、及び書状等の原史料から、1615年の興秋の切腹後から1642年の天草御領での死去までの動向を解明した。 

これにより400年目にして「興秋の伝承」が真実であったことを原史料から解明して、天草の伝承「細川興秋の生存説」が証明され、日本史の定説を覆す最大の発見として認められた。  

キリシタン史の中で最大の謎とされてきた中浦ジュリアン神父の1627年から1632年12月の小倉での逮捕までの6年間の隠棲場所(香春町採銅所・不可思議寺)の特定と隠蔽した細川興秋が住職をした「不可思議寺」等、興秋が罹患した脳梗塞等の解明も含まれている。

明智光秀を祖父に、細川ガラシャを母にもつ細川興秋の生涯について、一次史料を基に天草伝承「興秋生存説」を証明する。
「御やと御無事ニ御座候」米田監物是季書状から始まった興秋伝説が400年目の今「確証」となる。
本書はガラシャの信仰を受け継いで激動の時代を生き抜き、真摯に生きた興秋の苦難の人生を描き、天草において閉じた興秋公の全貌をまとめたものである。

*特別寄稿
長岡興秋の生涯とその心   天草市 中村社綱(たかつな)

 
私達のルーツは「明智光秀である」と言い伝えられていましたが、光秀は日本の歴史上、最大のクーデターである「本能寺の変」を引き起こした人物で、いわば戦国武将の中で最も人気度の高い織田信長に、しかも主家に弓引いた、三日天下の大罪人であると言われてきました。従って「明智家の子孫である」と名乗るなどもっての外、世間にはばかることでした。

滋賀県坂本の明智家菩提寺・西教寺の明智一族の墓所

ところが、昭和58年でしたか、初回『竹の会』を開催しました。それは我々「明智光秀・細川ガラシャ」の血脈をもつ親戚会の名称で、中村家十二代当主 故中村矩(のり)眞(ざね)が主宰しました。提案者は中村家に繋がる故園田直(すなお)代議士で、当時は厚生大臣二期・外務大臣二期・官房長官等、要職を歴任した超大物政治家でした。細川忠興・ガラシャの長男 忠隆子孫・故細川隆元氏の著書『男でござる』の中にも記述があるように、我々は細川家次男・興秋の家系であり、三男忠利(熊本城主)の家系・細川護(もり)煕(ひろ)氏(元総理大臣)にもお出でいただくことにしようとの提案がありました。しかし、細川家正史によると、次男興秋は大坂の陣のあと切腹していますから細川家としては興秋が天草に血脈を持つとは認め難い状況にあったと思われますが、当時園田直氏の誘いに対し、細川護煕氏も嫌とは言えなかったのでしょう、阿蘇神社の宮司・故阿蘇惟之氏と共に参加していただきました。このようにして『竹の会』を定期的に開催し、その血脈を持つ者は『竹の会』を誇りに感じてきました。
 
今日では歴史検証が進められ、最近のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』で、光秀の教養、人格、謀反に至るまでの心の葛藤、さらに「本能寺の変」の正当性までもが取り上げられ、末枝としてはとてもうれしく思っています。
明智光秀の娘・ガラシャの第二子、細川興秋が天草にいて、天草に血脈が残っているとする説はあくまでも「伝承」であって、いわば「伝説の域」でした。むしろ細川家の歴史としてこの件に触れることはタブー視されてきました。
 
興秋は慶長19年(1614年)からの大坂の陣で豊臣氏に味方し大坂城に入城、道明寺の戦い、天王寺・岡山の戦い等で奮戦し功名を挙げましたが、豊臣方が敗北したため戦場を離脱し、細川家家老・松井氏の菩提寺、伏見の稲荷山東林院(現在場所は不明)に匿われ、その後切腹させられました。(細川家記)。当時、家に無用な者は切り捨てられる時代でした。
定かではありませんが、細川家は兄弟が、豊臣・徳川に分かれて、どちらの天下でも家が存続できるようにしたのかもしれません。
 
しかし、天草以外のどの地にも興秋と断定される墓はありません。興秋ほどの武将に墓がない、興秋を供養している寺社もない、そのような事はありえないと思います。また、興秋と同様に慶長12年(1607年)に出奔し、その後興秋と行動を共にし、大坂の陣に参戦した細川家臣の米田監物是季(長岡監物是季)は、大坂の陣の敗戦後、興秋の祖父・明智光秀の菩提寺・坂本の西教寺に保護されて隠棲しました。大坂の陣の7年後、元和7年(1622年)、細川忠興から再三帰参を薦められ、破格の待遇の2000石を与えられて帰参しています。
その後家老職にまで抜擢され「天草島原の乱」などに活躍して知行1万石に加増、子孫は代々家老職を務めています。このことから「実は興秋は、忠興の密命で米田是季の護衛のもと、肥後天草に逃れ、宗専と名を変えて子孫は庄屋になった」との『興秋生存説』がでてきたのです。
 
私も『興秋生存説』について正直半信半疑でしたし、その件について深入りする気もありませんでしたが、中村家十二代当主故中村矩眞(のりざね)の妻・美智子叔母より『中村家系図』を委ねられたことから、矩眞姉・養の長男であり、女系男子ではありますが十三代当主としての自覚と責任が芽生えたことも事実です。また、私の父の家系も実は細川興秋の子孫です。興季の次男・初代佐伊津村庄屋中村藤右衛門の長男・惣右衛門が中村本家を継ぎ、次男・治右衛門が中村姓のまま山下家の祖となりました。これが父中村虎夫(8代当主)の家系で、私が9代目になるのです。
『中村家系図』冒頭には藤孝・忠興・興秋・興季、四代の名前が記されています。
 
昨年 (2020年) 2月に「興秋生存説」を裏付ける有力な証拠として、弟忠利から兄興秋への書状『長岡与五郎宛 元和7年 (1621) 5月21日 細川忠利書状』が熊本県立美術館に展示されているが、この古文書について腑に落ちない点があるとのことで、調査依頼が細川宗彦氏から髙田重孝氏にありました。
 
確かに切腹の6年後に書かれた書状で、その「読み下し文・現代語訳」ができた夜に、偶然にも私が髙田重孝氏に電話を入れ、興秋の子孫であることを告げ、そこから、髙田氏から史料と情報の提供と協力依頼を受けて興秋調査に関わって行くことになったのです。これを機会に髙田氏の20年に及ぶ『興秋生存説』研究が一気に進展することになりました。
 
弟忠利(豊前小倉藩主)から死んだはずの兄(興秋)への書状に加え、米田監物是季から細川藩国家老、長岡佐渡守(松井新太郎興長)宛書状(1635年12月に書かれた書状)には、藩主忠利のキリシタン誅伐の命を受け、小笠原玄也一族の処刑を済ませた報告と共に、自分の主人である興秋(52歳)について『親やと御無事ニ御座候』と報告しています。
このことは「興秋が小笠原玄也一族誅伐事件に巻き込まれず、米田監物是季の手引きにより無事に熊本・鹿本の『泉福寺』から天草のキリシタン寺(御領東禅寺)に避難できたことを示しており、興秋生存の有力な証拠と言える」と髙田氏から報告を受けました。
 
興秋は天草御領城内において『長興前住泰月大和尚禅師』として「長興寺薬師堂」を開き、そこで生涯を閉じ、曹洞宗芳證禅寺の東側墓地に興秋の墓が現存しています。墓碑銘は『長興寺殿慈徳宗専大居士』となっており、興秋の墓碑銘には細川家にゆかりのある文字が沢山使ってあります。「長興前住」とは、長興寺の住職であったという意味で、「泰月大和尚禅師」の泰は、興秋の祖父細川幽齋の戒名である『泰勝院殿徹宗玄旨大居士』の泰であり、細川家の菩提寺の泰勝寺の泰でもあります。長興寺の長は、長岡の長、(長岡は細川の元の名前)、興は興秋の興です。
 
天草での興秋子孫は中村五郎左衛門興季・御領大庄屋を初代として続き、詳しい興秋系図がその庄屋家から享和2年(1802年)に奉行所に差し出された(細川家同族天草長岡家系譜・熊本県立図書館蔵)のが正式の記録として現存しています。
そこには『そもそも興秋は三斎忠興の第二子にして、幼きより穎悟聡敏、慶長五年関ヶ原の役に功あり、同十年弟君忠利公の代りとして質となり江戸に赴く途次出奔し、のち豊臣方に属し大坂城に籠り、ために父君の怒りに触れ、元和元年落城後死を命ぜられ京洛伏見東林院にて自刃すと史上に伝うるも、実は忠興公並びに松井右近昌永のはからいにて、ひそかに苓州御領の地に遁れ隠棲せしめたるならんか』と記されています。(池田家文書)
 
また興秋は「桂林庵」の号で『長興寺薬師如来縁起』(興秋直筆)をしたためています。
『芳證禅寺』は「天草島原の乱」後、代官鈴木重成が仏教再興のため建立。自分の両親の戒名より「月圭山・ 芳證寺」という山号、寺号を命名しました。その時興秋が持参した薬師三尊を安置する『長興寺薬師堂』を芳證禅寺に合併して創建しています。 鈴木重成は表向きに両親の菩提寺として芳證禅寺を創ったのですが、細川藩の最高機密である興秋隠蔽の事実を匿うためであったと思われます。興秋の存在を認めている鈴木重成自筆の『芳證寺寺領証文』も残されています。(芳證寺文書)
 
日が過ぎ、95年前の大正15年9月に九州日日新聞(今の熊本日日新聞)の記者であった後藤是山氏が『細川忠利の兄』と題して四連載記事(大正15年9月15日~19日)を書いています。その記事の中に、興秋の持参品についての記載があります。
 
『宗専様以来持傳申候品』
刀  一腰 (大小) 無銘
茶釜一つ       
家康公御状      焼失仕候
秀忠公御状      焼失仕候
家光公御状      是も焼失
しかし、右三状ともに御文言はなく「長岡興道の代迄数度の火事により焼失イタシ候哉」とある。
 
その後調査が進展して現在天草に残されている『細川興秋の遺品』としては
1 芳證寺所有の興秋持参の刀一腰:大は無銘・兼元(孫六)脇差:銘兼元(孫六)
2 芳證寺所有の興秋持参の薬師如来像と二体の脇侍像
3 芳證寺薬師堂にある興秋の位牌
4 芳證寺墓地の興秋墓碑と従者二人の墓碑
5 東禅寺過去帳、芳證寺過去帳にある興秋の妻(側室)の死亡記録と興秋の死亡記録
6 芳證寺過去帳にある興秋の死亡記録
 『長興寺薬師如来縁起』(芳證寺文書)
芳證寺に残されている興秋直筆の巡察使の尋問に備えたと言われる「答弁書案文」
8 『芳證寺寺領証文』鈴木重成自筆(芳證寺文書) 
9 『天草長岡家系譜』(池田家文書)(池田裕之氏所蔵)
10 『中村藤右衛門家系図』(中村社綱所蔵)
11 九曜紋の入った『ガラシャの化粧箱』(池田裕之氏所蔵)
12 九曜紋の入った『興秋の金庫』(池田潤穂・幸恵氏所蔵) が判っています。
 
上記の様に多くの『興秋遺品』が芳證寺様をはじめとして天草に現存していることは誠に感謝の極みです。

長興寺殿慈徳宗専大居士(細川興秋)中央と従者の墓碑・天草五和町御領芳證寺墓地


再建立された興秋の嫡子・初代大庄屋・中村五郎左衛門興季と妻の墓碑(左)
興季の長男で第二代大庄屋・長岡宗左衛門興茂の墓碑(右)

興秋がキリシタンゆえに廃嫡され、京都に於いて細川家を出奔した慶長10年(1605年)以後、唐津藩寺沢家に仕官していた興秋の従兄弟・三宅藤兵衛重利の紹介で、興秋は富岡城城代佐伊津金浜城主関主水の女(中村半太夫養育)と結婚。二人の間に一人息子「与吉(興吉)』が生まれます。後の『中村五郎左衛門興季』です。「与吉」が元服する時、米田是季に恩義を感じていた興秋は嫡子「与吉」に『興季』と名付けました。興秋の興と是季の季を頂き『中村五郎左衛門興季』(初代御領大庄屋)と名乗っています。『興季』が長岡家・中村家のルーツ初代です。
 
御領の初代大庄屋となった『中村五郎左衛門興季』は男子二人、女子二人の子供をもうけます。長男家系は14代長岡養四郎興敏氏まで続きましたが後継者なく長岡家は途絶えました。しかし、興季の次男中村藤右衛門の家系が現在でも存続しています。
 
 さて、興秋は天草・御領で幸せな日々を過ごしたのでしょうか。興秋が山鹿から天草に避難してきた時、寛永12年 (1635年)10月頃、御領にいた妻 (側室) は同年7月に他界していましたが、一人息子興季との25年ぶりの再会と生活は、大坂の陣の20年後、初めて得た安らぎの期間であったと思われます。同じ御領にいる息子興季が父興秋の面倒を見ていました。また富岡城代をしていた従兄弟の三宅藤兵衛重利(ガラシャの姉の子)との劇的再会はまさに幼少期に戻って母ガラシャの想い出を語り明かしたことでしょう。
さらに御領の「長興寺薬師堂」でのキリシタン宣教師としての役割もかけがえのないことであったと思います。
 
しかし、それもつかの間の幸せで2年後・寛永14年(1637年)10月「天草の乱」が勃発します。原城に於いて不幸にも多くのキリシタンたちが戦死しましたが、興秋が説得した御領を中心に乱に組みしたキリシタンは皆無といっていいほどでした。自分が経験した大坂の陣での悲惨な敗北が説得の背景にあったのではないでしょうか。
 
興秋にとって「天草の乱」での最大の心の痛手は従兄弟三宅藤兵衛重利の戦死でした。甥にあたる中村五郎左衛門興季もキリシタンでしたので、叔父の『藤兵衛の遺体を一揆軍から貰い受け、広瀬の地(現在の墓地)まで運び埋葬した』と記録に残されています。
 
「天草の乱」の後、御領周辺に平和が訪れた1639年か1640年頃、嫡子興季は結婚しています。婚礼の席に出席した興秋は大いなる喜びと平和の有難さを感じたことでしょう。
 
次の年、1641年(寛永18)3月17日 興秋の弟、肥後熊本藩主・細川忠利(55歳)が脳卒中のため熊本城にて死去しました。実の弟忠利は兄興秋の存在を生涯にわたり擁護し支え続けました。興秋の最大の理解者である実弟忠利を失った興秋の悲しみは如何ばかりかと思います。実弟忠利を失った興秋の深い悲しみを神は優しく慰めてくださいました。 
 
同年春頃、興秋の嫡子興季(推定年齢35歳~31歳)は江戸より呼ばれて、天草初代代官鈴木重成の命により御領組みの大庄屋を預かります。(池田家文書)
興秋の嫡子興季は、母の育父中村半太夫の苗字を取り『中村五郎左衛門興季』と名乗ります。父興秋(宗専58歳)は殊の外、嫡子興季の大庄屋就任を喜びました。興季(中村五郎左門)を始め家僕近隣の者たちが集まり、興季様が大庄屋に指名された事を大喜びしていることを聞かれて、大庄屋を仰せつ付けられたことが、それほど有難く悦ぶことなのか『笑止千万也』と大いにお笑になったと記してあります。
 
同年、興季の嫡子「五郎太」(後の長岡宗左衛門興茂・第2代大庄屋)が誕生しました。興秋にとっての初孫です。興秋は初孫「五郎太」を腕に抱き、神から与えられた本当の平安と喜びを心に感じたことでしょう。神父として興秋は「五郎太」に幼児洗礼を授けたと思います。
 
同年、天草の軍事的要・富岡城は、肥後細川藩預かりとなり、富岡城番衆として南条大膳元信(興秋の娘・鍋の夫)が派遣配置されています。南条大善元信が配置されたことも、細川藩が興秋、興季父子の事を十分に考慮していることを示しています。
興秋の愛娘・鍋(30歳)が夫南条大善元信と共に富岡城に来ています。鍋は「長興寺薬師堂」での父興秋の存在を知っていて秘かに訪ねています。興秋にとっても1615年(慶長20)5月以来の26年振りの愛娘・鍋との再会でした。
 
また鍋にとっても、初めて会う腹違いの兄興季(35歳・御領大庄屋)との出会いでありました。興秋にとって息子興季、愛娘鍋と共に出会う機会が与えられようとは思いもよらなかったでしょう。神が与えてくださった興秋の最晩年に訪れた心穏やかなささやかで幸せな家庭生活でした。
 
また、鈴木重成が代官として赴任し、興秋の良い理解者としての出会いとなり、キリシタン寺「了宿庵」(後の東禅寺)の正願住職とは、キリシタン指導者として心を通じた盟友であり協力して御領周辺のキリシタンたちの指導をしていました。
 
1642年6月の「興秋の葬儀」も正願和尚が執り行っています。興秋はこのようにして波乱万丈の人生を60歳で閉じることになりましたが、激動の戦乱を生き抜き、苦難の人生の中にも最後に訪れたささやかなる安寧の時間を得たのではないでしょうか。私はそうであってほしいと思っています。
 
最後に、これまで「伝説の域」であった『興秋生存説』が今回の髙田重孝氏の著書『細川興秋の真実』によって明らかにされたこと、興秋の子孫の一人として心より感謝いたします。

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