見出し画像

俺のX 2024年9月②

9/3

お誕生日です。(たくさんの愛を受け取ったので大きな声で)ありがとう~!!!

本家Xのほうで同じ誕生日の人たちをリツイートしてから結婚の報告もした。思いもよらない人からいいねやリプライが来て思いもよらないことが多いな~と思った。ありがたいですね。礼を言うぞ。ありがとう。

ちなみにちょくちょく使う「礼を言うぞ。ありがとう」はいがらしみきお先生の『忍ペンまん丸』で頭領のクマが使ってて中学生当時めちゃくちゃ笑ったので真似をしています。「礼を言うぞ」までが吹き出しで、「ありがとう」は吹き出しの外の書き文字だった。それ今する話?

誕生日だけど、別に何ということもなく普通に出社しているし妻は海外出張なので夜も特に予定はなく、なんかダラダラ飲むだけになりそう。そういうのもまたよい。よいかな。よいかも。どうだろう……

この「~かな」「~かも」「どうだろう……」という構文も『動物のお医者さん』のチョビの真似をしています。

こういう自分の好きな言い回しは今後も出典元を明記することなく急に使うと思う。このカシオミニを賭けてもいい。げんきな昭和生まれです。令和まで生きてこられた。ありがとう!

9/4

本家Xから離れていたし、みんなもそうだと思ってたけど今回のお誕生日&ご結婚いいね数の多さで意外とみんなちゃんと使っているというか、見てはいるんだなということがわかった。ありがとうね。後ほどちゃんとお返事しよう。

「インターネットはこわいところだ」という感覚は常に持ち続けていて、エクスキューズその他に気を遣っているつもりなので顔出しの写真を上げるのはだいぶ悩んだけど、ああいうご報告ごとはひと目でパッとわかったほうがよいよね、ということで「ヤーッ!」とやってみた。妻には怒られると思う。

まあ気を遣っているつもりというだけで特にセキュリティを強化しているということもなく、技術的には無防備ではある。そういうことをうまくできる人間にはついぞなれそうもないので、ヘタに気を遣ってすり減らすくらいなら、いっそ全部つまびらかに投げうってしまったほうがストレスはないのかもしれない……いやそんなことないか。努力したくないのを無理やり正当化しようとするでないぞ。

とはいえ細かなストレスを持ち続けながらだましだましやって、夜は酒でも飲んでガッと寝て朝には忘れてるほうが自分らしいな。タレントでも芸能人でもない一般人だものね。何の話だったっけ。

『地面師たち』にチンピラ役で出てたお笑い芸人のことずっとアドゴニーって呼んでたけどアントニーだった。アドゴニー元気かな

ぜんぜん関係ないけど、川島小鳥さんの「未来ちゃん」も元気かな、とふと思い出した。10年前くらいにすごい売れてた写真集のモデルの女の子。

で、ざっとググってみたら、なんとその「未来ちゃん」の新作?写真集が、昨日発売になったらしいと知りました。13年前の写真の未収録分?ですって。発売記念の展覧会も昨日から始まったばかりということで、ちょっと気になる。

なんかパッと思いついたことと現実がリンクする偶然のタイミングみたいなのって、こういう感じでたまにあるけど、なんかこう、あるな~って思う。「思い立ったが吉日」とはまた少し違うけど、そのことわざと似たようなポジティブな力を感じる。せっかくだから乗っかりたいね。

9/6

せっかくなので未来ちゃん写真展に行ってきた。外国のデザイン書とか画集とか置いてる書店の一角に大小の写真がばーっと飾られていた。

先行販売されている写真集は川島小鳥さんのサイン付きだったし、もっとゆっくり眺めたい写真ではあったからだいぶ迷ったけど購入はせず。本当に好きな人に悪いな、という謎の遠慮ごころが勝ってしまった。

今回なんか思い付きで検索しただけで、最近の活動も(あのちゃんとか芸能人の写真集も撮ってるの)知らなかったくらいなので、そんな俺が買っても、なんか悪いなーって。

原宿と表参道のど真ん中あたりのカルチャーな雰囲気にあてられながらフラフラと足を運んだ哀れな元サブカルおじさん、という自分への客観視も、ちょっと苦しかったし。こじらせてんな。かわいそうに。

そんなの気にせず買ってくれたほうが著者も書店も版元もうれしいのはよくわかっているけどもね。なんとなくね。ヨーロッパのダイナーかどこかで普通に食事してる白人のおじいちゃんを丸い目で見つめる未来ちゃんの写真が、すごいよかったです。

前の未来ちゃんの写真集もまた眺めたくなった。

久々だったので、そのあとは渋谷から自宅に向かってずっと歩いて帰った。
明治通りとセンター街と井の頭通りをまたいで神山町を抜けて、新しくなった代々木八幡駅(すげえ高架なってた!)とか、むかし行ったことのある中華屋が別の中華屋になってることとかに驚きながら山手通りを北上した。

このへんの近所に住んでいたころは好きな音楽を聴きながら無駄に歩いていた。終電はとうに終わったド深夜の時間帯で、タクシーに乗る金もなかったというのもある。

遠くに見えるビル群を眺めながら歩いていると「夜の東京を歩いているのだ」という田舎者特有の恍惚感をじんわりと得られて、なんだか楽しかったのを憶えている。

今回もなんかそれっぽいBGMをイヤホンで流しながら(swimmの『君の街に行けることを確かめようと歩いた』がいいな)無理やりにでも気分をセンチメンタル方面へ高めたら、夜の東京を歩くという行為に改めて浸れたかもしれない。

でも途中から散歩ではなく足をただ前に動かしているだけになって、なんだかイヤホンを取り出すのも億劫で、つらくなってバスと電車を乗り継いで普通に帰った。

9/9

薬の副作用なのか、疲れやすいし後頭部のあたりが二日酔いのときみたいに重くて痛いしたまに吐き気もするし、いやあね。でも今日から休薬だ~~休むぞ。

勤務先(版元)から出てる本を読んでて、おもしろいなーって思ったことがあったので書いておこう。

100年前からある子供向け科学雑誌のまとめ本なんですけど、その雑誌を読んで育ったという現代の研究者が100年間の科学史を振り返るという記事のなかで、いわゆる科学者は「何を知らないかを知っている」という話題が出てましてね。

ノイズを含めた様々な「答え」が用意されている現代では、自分の頭で考える前のトレーニングが足りていない。自分は何を知らないのかということに自覚的でないから、安易な答えを信じ込んで、その「答え」に合わせて体系的に考えてしまう(体系化してしまう)ので陰謀論にも発展しやすい—―みたいな話でした(要約これで合ってますかね。間違ってたら社内のどなたか教えてくださいね)(社内に読んでる人いたらいやだな)。

なんか元気でたよね。何を知らないのかをまず知って、そこから自分で考えていく。

めちゃめちゃ首肯しちゃう。そうそうそう。ひるがえって、知らないっていうこと自体は別にまったく何にも変じゃないし、劣ってもないしもちろん罪なんかでもなくて。

知らないことはもう大前提としてあって「じゃあどうやって答えを見つけていこうか」っていう流れで真実にフォーカスしていくっていうのが、遠回りかもしれないけど確実だしとてもよい。よいよねえ。よいなー。

9/10

昨日の続きを書こうと思ってたけど書けてなかったな。まあいいか。

9/11

『本を読んだことがない32歳がはじめて本を読む』を読みましたよ。オモコロ記事まとめ本でもあるんですけど、そもそも最初の記事がとてもよいので未読の方はご一読ください。

https://omocoro.jp/bros/kiji/366606/

ぼくそんなに読書家というわけではないけど「本の読み方がわからない」ことがわからないほうの人間ではあるので「そういう風に受け取るんだ、感じるんだー」っていうのがすごく新鮮で楽しい驚きだった。やっぱり読書ができるって特殊能力に近いんだ。誇っていこう。

書くほうでもあるけど、書いたものがどういう風に受け取られるかっていうのは制御できるものではないと腹をくくっているので、書くっていう行為は「なんとなーくのくくりをぼんやり文章で設定する作業」でしかないと思う。でしかない、っていうのも乱暴か。でもそういう感じ。わかるように書け、っていうのもなんか違うよなーって思っている。

自分なりに整えた設計図みたいのを、読者が文章から拾ってって頭の中で再構成してくれることでようやく成立するわけですよ。書き手と読み手によるキャッチボールみたいな単純な往復・反復じゃない。読書って行為には著者の設計図をもとにして読者が頭の中にトンカントンカン何かしらを建てくようなことも内包されているという。それができるって、すごい能力じゃない? 

読むって行為は元来クリエイティブなものなんだなってつくづく思った。すごい。誇っていこう。

というか、誰かの作った何かを見たり触れたり食べたり飲んだりすること、そうやって受け取ったものを自分の中で再構成すること自体が、そもそもすごいんだな。誰かが作ってくれたものすべてを頭と身体で栄養にしている。生きている! すばらしい~

9/12

本家Xをやめようと思いましてね。

そんなことより暑い。夏が終わらない。エンドレスサマーすぎる。どうせエンドレスなサマーならオブ・ラブまで欲しい。俺は何を言っているんだ。

「サマー・オブ・ラブ」ってあるじゃないすか。ヒッピームーブメントのやつ、くらいしか知らないですけど。「セカンド」もあるけど、そっちもレイヴ文化を生み出したイギリスのクラブ音楽ムーブメント、くらいの知識しかないですけど。

そのワードからズルッとエウレカを思い出しましてね。『交響詩篇エウレカセブン』ね。

観賞してた当時はほぼまったくクラブ文化とかダンスミュージック界隈のことを知らなかったから、クラブとかダンスとかストリートとかのカルチャーからいろいろとインスパイアされた設定があるっていうの、ほとんど後追いで知って、素直に「へー」となってた。サマーオブラブもそう。ハイスタの曲かな、くらいのもので。

そういう、なんていうか一見してオタク文化と相容れないようなカルチャーから元ネタ引っ張ってくるみたいの、今『エウレカ』初見だったら「なんかスカしてんな」とか思ったかもなーと意地悪なことを考えてしまった。うるせー、みたいな。

制作サイドには「オタクが本心では憧れている陽キャのノリをオタクでも楽しめるようにしました」みたいな狙いがあるんだろうな、とか穿った受け取り方をしちゃうかもなーと。

そんで、しゃらくせえーとか言っちゃってそうだなーって。当時のオタク諸先輩方はそう思ったりしなかったのかな。そういうのいいからロボット見せろや、みたいな。「面白いけどなんか鼻につく」とか当時の2ちゃんとかで評論家ぶってお気持ち表明したりさ。やだなー。俺は『エウレカ』をちゃんと楽しめてよかったな。

—―みたいなことを考えてたら、「Xやめるか~~」ってなりました。

は?

ぜんぜん話が見えないですよね。そのきもち、わかる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?