見出し画像

【最後の手紙:二次創作】 水野りいさ著

Liner notes

 「二次創作」は原作者にとって実に「贅沢」なことである。何故なら、二次創作者には、日常生活の最中、多くの時間と労力を「原作」に向けていただくからである。執筆活動は、何も机の上だけではない。静かな通勤電車内、無意味な会議中、堕落したテレビを見ながら…など、執筆への意識は、時間、場所を問わないのだ。
 さて、二次創作者「水野りいさ」さんには、3か月もの長い期間、創作に取り組んでいただいた。水野さん曰く、「プロットを書くのに木埜の年表を作りました(笑)。イタリア語専攻だったのかとか、どんな映画を見る人だったのかなとか。あと、佐野さんについてはあまり作中で触れませんでしたが、参考に彼の曲も聞いたりライブの事を調べたり…」とのこと。そのご配慮は、存分に小説内に落とし込まれている。是非、原作へのオマージュと、青森で素朴に生きる木埜の息づかいを感じていただきたい。以下、水野りいささんからのメッセージである。

・・・・・・

 ご縁があり、「最後の手紙」の二次創作を書かせていただきました。木埜が青森で過ごした10年間について書かせていただきました。原作では木埜について、フィクションやリアルを交えて語られていたので、本当はこのシーンで何をしていたのかな、何を感じていたのかなと想像しながら書くのがとても楽しかったです。また、原作に出てくる登場人物の「名前」が好きでした。今作でもオマージュして少し遊んでいます。くすっとしていただければ嬉しいです。

水野りいさ


「これから」
水野りいさ 著

 青森に帰ってきたのは本当に久しぶりだった。地元での冠婚葬祭に出席することもあったが、それもかなり前のことになる。
 生まれ育った思い出の地でもう一度スタートを切りたかった。吸い込んだ空気は澄んでいて、緩やかな雰囲気にほっとする。
 青森に来た理由の一つに、東京の目まぐるしい進化速度や密度に疲れたというのもあった。地元の青森なら、未来が迫る速度が東京よりは少し遅いかもしれないと考えたのだ。東京は良くも悪くも最先端を地で行く。最近はカフェに入っても紙のメニューはなく、スマホでQRコードを読み取って閲覧するというような店もある。スマホを持っていない人間は徐々に淘汰されるのだろう。じわりじわりと迫る崖が背後に控えていて、少しでも前進が遅れれば自分一人が谷底に落ちる、そんな気がした。スマホがライフラインの一つともいえる現代で、ほとんどの人たちからすればただ便利になっただけなのだろうけれど。
 きっともう、東京に戻ることはない。別居したり復縁に悩んだりした時期もあったが、今は割とすっきりしていた。様々なことに区切りをつけようと決意できたのもこうして地元に戻る決意ができたのも、きっと電車で散らばったレシートを拾ってくれたあの女性のおかげだろう。本当に出会えてよかったと思う。憂いても仕方ないと笑ったあの人のように、今を生きたい。そして最後に振り返った時、人生がいいものだったと言えるようにしたかった。

 引っ越しの荷解きが終わると、このアパートの大家に挨拶に行くことにした。このアパートの3階の一番奥の部屋は大家が住んでいて、アパート管理をしているとのことだった。
インターホンを鳴らすと「はい」と女性の声がしたので「引っ越してきた木埜です」というと間もなくドアが開いた。ラベンダー色のシャツを着た小柄な女性が現れる。
「こんにちは。今日から入る木埜さんですね」
「初めまして。これからお世話になります」
 同い年くらいに見える女性はえくぼをみせてにこっと笑った。人のよさそうな笑顔をする人だ。
「これ、よろしければ召し上がってください」
「あら、お気遣いいただいて…夫といただきます」
女性はまた笑顔を見せ、何か言いかけたが後ろで電話の着信音がした。
「どうぞ出てください。私はこれで」
「あわただしくてごめんなさいね。これからよろしくお願いします!」
 短い会話であったが、優しそうな人でよかったなと思う。名前を聞き忘れてしまったが、表札が出ていなかったので分からずじまいだった。
生活リズムが違うのか、彼女とはそれからしばらく会うこともなかった。

 青森での仕事は、市の会計年度任用職員として事務の仕事をすることになった。仕事内容は聞きなれないことなどもあったが、仕事を辞めた直後ということもあって、ブランクがないのでなんとかついていくことができた。仕事はパートの区分なので、以前の仕事よりも比較的時間には余裕がある。朝もゆっくりコーヒーを飲んでから出勤できたし、仕事帰りはスーパーや本屋に寄って帰っても遅くなることはなかった。

 その日、自宅で夕飯を食べてから雑誌を読んでいた。気になる記事があったので付箋を貼ろうと思い、机の引き出しを開ける。この間使ったばかりなのにどこを探しても見つからず、入れた覚えのない引き出しも開けてみる。
 すると紙のコースターと封筒が目に入り、つい固まってしまった。これを見ると一気に思い出が甦ってしまっていけない。付箋を探していたことも忘れてそれを手に取り、この二つの品と関わりのある二人の女性を思い出す。

 このコースターは、唯井に連絡先を聞いたときに書いてもらったものだ。自分からこんなことを頼んでしまって、今思えばあの時かなり浮かれていたなと思う。少し傷や汚れがついてしまったが、これはどうしても捨てられなかった。特にプレゼントを贈り合うこともないくらい短い間しか一緒にいなかったから、これが唯一のモノとしての思い出だった。
 封筒の方は、千明に送るはずだった手紙だ。せっかく書いたのに結局送れないままだった。
 コースターを引き出しに戻し、手紙を封筒から取り出す。改めて読み返して思うのは千明への感傷というより、この手紙の元となった歌詞を書いたアーティストへの尊敬の気持ちだった。まるで自分のことをそのまま歌っているような歌詞に、胸が打ち震えてしまう。
 もちろんこの歌詞――手紙にあるようなことを思っていることも事実だ。高校生の時からの付き合いでずっと一緒にいた千明に対して、つらい思い出もあったがいい思い出もたくさんあった。そのため、この手紙と見ると様々な思いが交錯して胸が苦しくなってしまう。
 そっと手紙を封筒に入れて引き出しに戻し、付箋を探した。

 青森に来て3年が過ぎた。仕事は年度契約だったが、毎年更新してもらうことができたのでそのまま働いていた。変わったことと言えば疲れがたまりやすくなったことくらいだ。確実に老化の一途をたどる身体にわびしさが募る。しかし生活は充実していた。
 仕事に行き、好きな映画を見て、本を読む。たまにその感想をノートにしたためる。ベランダからはアパートの向かいにある公園の大きな木々が見えて気持ちがよく、部屋にこもって余暇を過ごしていても癒された。
 
 そしてスマホを手放して3年が経ったという節目でもあった。青森に来ると同時にスマホを解約し、家には固定の電話回線を引いた。職場でスマホを持っていないと言うととにかく驚かれる。特に高卒で入職した若い子には「どうやって生きているんですか?」と聞かれたこともあった。なくても生きていけるよと答えたが、大体は信じられないという目を向けられる。このやりとりが異動の時期になると必ずあるので、周りの職員は新しく入職・異動してきた人の反応を見ては微笑ましい視線を送ると言うのが恒例になっていた。
 市の仕事をしていると「スマホで来庁予約ができます」とか、「アプリで申請ができます」というようなサービスを紹介することになるので自分が時代と逆行しているのはひしひしと感じるのだが、別段困ることはない。
 現在や未来を憂いても仕方ないし、昔には戻らないというのは理解していた。自分の中でも区切りをつけたつもりだ。でも、あの頃ならではの良さを感じていたいのだ。誰にも理解されなくても全く構わなかった。

 ある週末、少しだけ疲れがたまっていて寝過ごしてしまった。
ようやく起きたものの昼食を作るのが面倒に感じたので、どこかに食べに行くことにした。シャツにジャケットを羽織って、最近買ったチロリアンシューズを履く。
 部屋から出て外を見ると、敷地内に誰かがいた。その影は大家の女性だった。田舎なのでどこかで出会いそうなものだがほぼ会うことはなく、稀にごみを出すときに見かけるくらいだった。箒を持っているところを見ると、アパート周辺の掃除をしているところらしい。女性は「あら、木埜さんこんにちは」と声をかけてからこちらをじっと見つめてくる。
「木埜さんって、おしゃれですねぇ」
「え?ああ、それはどうも…」
 そんなことを言われると思わなくて少し驚く。
「靴、素敵だわ。いい色ですね」
「ありがとうございます。私も気に入っています」
 女性は上から下まで眺めてうんうん、と頷く。そんな様子を見て、3年も経つのにこの女性の名前を知らないなと思った。家賃はビルの名前の口座に振り込みだったし、知る機会がなかったのだ。
「あの、今更で失礼ですが…大家さんのお名前を存じなくて。機会がなかったもので」
「あら、私名乗っていませんでしたか?それはすみません」
 特に大家の名前など知らなくても困らずに生活してきたが、なんとなく気になった。
「私、面白い名前なんですよ。有賀塔子ありがとうこと言います。笑ってやってください」
女性は陽気に笑った。

 昼食として選んだ蕎麦屋でそば茶を飲みながら、面白いこともあるものだと思った。
青森の地に来ることになったきっかけをくれた女性の名前は「唯井真子」だった。そして今度出会ったのは「有賀塔子」という名前の女性。そんな偶然はあるのだろうかと何度も考えては、つい口角をあげてしまった。

 昼食のあとは、買い物をしてから家に帰った。この後はどうしようかなと考えながら洗面台で手を洗おうとすると、蛇口の根本部分のパッキン部分から水が噴き出して四方に飛んでしまうようになっていた。前から少し水漏れがあるなとは思っていたが、いよいよどうにかしなければならないらしい。水道屋に勝手に電話するとぼったくりに遭う気もするので、有賀に水道屋を呼んでもらおうと思った。

 3階の一番奥の部屋のインターホンを鳴らすと、有賀はすぐに出てきた。
「それは困りましたね。水道屋さん手配しますね」
「ありがとうございます」
「馴染の人だからたぶんすぐ来てくれると思います。私は今からしばらく連絡はつかないので、何時ごろ来てくれるかわかったらメモをポストに入れておきますね」
「わかりました。…連絡がつかないっていうのは、外出されるということですか?」
「ええ。私スマホ持ってないので、本当に連絡つかなくなっちゃうんですよ」
 有賀は何事もないように言ったが、思わず目を大きく見開いてしまった。

 水道屋はすぐ来てくれて助かったが、今はそれよりもスマホを持っていないという有賀に唐突に興味が沸いてしまった。この時代に自分と同じ人がいたと思うと、砂漠でオアシスを見つけたような気持ちになる。
 一つだけ質問がしたかった。どうしてスマホを持っていないのか、理由が聞きたい。
 しかしこの3年殆ど会うことのなかった彼女とは会う機会はなかなか訪れなかった。

 ある日、職場に着くと同僚が有給で温泉旅行に行ってきた土産を配っていた。小さなラスクをかじりながら、そういえば最近旅行をしていないな、と気付く。次の週末に自分も温泉に行こうかと考えた。デスクワークが多いので、肩が凝っているのはいつものことだ。
 温泉について調べていると、不老不死温泉を思いついた。県内とはいえ地元からは遠かったし、温泉が好きなわけでもなかったので行ったことがなかった。旅行雑誌で調べるとちょうど新しい観光列車が走っているというのでこれに乗ってみることにした。

 当日、青森駅から特別感のある列車に乗り込む。スイッチバックをして進行方向が変わったり、車内で限定のドリンクを飲んだりすっかり観光気分だった。しかし車窓から海を眺めているとうとうとしてきて、駅に着くまでは寝てしまった。せっかくの観光列車であったが仕方ない。
 駅に着くと同じような温泉に向かう客が一斉に降りた。ゆっくり行こうと、非常に簡素な作りのホームをゆっくり歩く。するとついさっき降りた観光列車をカメラで写真を撮る男の子がいた。側面、前面と様々な場所から撮る。デジカメは10歳くらいに見える男の子には高価な気もしたが、今は安くて性能の高いカメラがたくさん売っているし、「鉄ちゃん」と呼ばれる人種は幼くとも大人と同じ熱い魂を持っていると言うことなのだろう。微笑ましくそれを見届け、改札を出る。迎えの車に乗り込み温泉に向かった。

 温泉にはかなり癒されて、身体にたまった疲れが解されていくのを実感した。海沿いなので景色も良く料理もおいしかった。家からは遠い場所だが、又来てもいいなと思う。
 帰りも観光列車で帰るため、その時間に合わせて駅まで送ってもらった。駅に隣接する物産館のベンチに座って電車を待とうとすると、急に近くの柱の陰からにゅっと子どもが出てきた。昨日到着した時にいた男の子だった。彼は隣に腰かけて話しかけてきた。
「おじさんは温泉のひと?電車のひと?」
「え?…おじさんは温泉に来た人だけど」
「そうなんだ」
 彼はそういうと黙った。今日も首からカメラを提げている。
「君、昨日もいたよね。電車が好きなの?」
「うん。おばあちゃんがこの物産館で働いてるから、その間はここで電車を見てるの。青森の電車を見られるのはおばあちゃんのところに来てるときだけでレアだから」
 男の子はくりくりとした丸い瞳をこちらに向ける。確かに今日もリュックなどを背負っているわけではなく、首からカメラと子ども用のスマホを下げているだけだった。
「撮り鉄、というやつかな」
「うーん、写真に撮りたいのもあるけど…見ていたいんだ。電車が駅に入ってきて、駅から出ていくところをずぅっと」
 男の子は目を細め、ホームを見据えて言う。
「…わかるかもしれない。なんだか切なくなるよ、電車が出ていくときって」
「わかる?そうなの!僕は東京に住んでいるんだけど、おばあちゃんが来てくれたときは帰りに駅に見送りに行くんだ。おばあちゃんを乗せた新幹線がホームから走り出すのを見るとすごくさみしくなる」
「そうだね。君は情緒が豊かでいいね」
「じょうちょ?…褒められてるのかな」
「褒めてるよ」
「ありがとう」
 男の子はどこか照れくさそうにした。
「おばあちゃん、青森から東京まで飛行機じゃないんだね」
「おばあちゃんは怖がりだから電車なの」
「はは、そうなんだ」
「おじさんは電車好き?」
「どうかな、あんまり考えたことはなかったな…まぁ、新幹線は好きかな」
「新幹線、僕も好き!」
 そう言いながら彼は歯を見せて笑う。子どもはみな新幹線が好きなものだ。
「私が若い時は新幹線のCMとかもすごく流行ってね…あれは好きだったな」
 つい昔の事を思い出して話してしまうと、男の子はパッと顔を明るくする。
「あ!知ってるよそれ」
「え?だって何十年も前のだけれど」
「ネットで見たもん。シリーズになってるやつでしょ」
 彼は得意げに言うとスマホを手にする。この年齢にしてスマホを操作する手つきがかなりこなれている。
「ほら!」
 そうして見せてきた画面は、当時流行った有名なCMの一つだった。クリスマスプレゼントを持った女性が駅を走る。かわいらしい笑顔が印象的だ。
「僕ね、このCM好きなんだ」
「そうなんだね」
「うん。これ、新幹線が着く時間に改札に着かなきゃいけないのに、遅刻しちゃったんだよね?スマホがないから連絡取れないし、だから帰られちゃうかも、ヤバいってことでしょ?」
「そうだね」
「なんかこのドキドキ感がいいなって思うんだよね」
 そうだね、と当たり障りなく相槌を打ちながら、こんな幼い子どもが、便利さの中に生まれた子どもがこの不便な時代を良いと言うことに驚かされてしまった。男の子はスマホから手を離し、首から垂らす。
「まぁでも、今もこういうことあるよね。だって、スマホは充電切れたら終わりだもん。僕はよく充電し忘れちゃうからすぐに切れちゃってお母さんに怒られる。連絡つかないって」
男の子はぷりぷりと母親への不満を口にした。
「だからスマホがなくてもなんとかなるよっていつも言うの。お母さんはいつもスマホ見てるから、ないとダメなのかもしれないけど。お母さん、スマホ見ながら返事してくること多いから寂しいんだ…」
 男の子は唇を尖らせながら言う。そんな様子を見てつい呆気に取られてしまった。赤ん坊の頃からスマホで動画を見ていたかもしれないような年齢だと思われるが、こんなことを言うとは思わなかったので驚いた。
「それは寂しいね。…でも私の周りもみんなそうだな。そういう時代なのかも」
「おじさんもスマホずっと見ちゃう人?」
「いや、それどころか私はスマホを持ってない」
「え!持ってないの?すごいね」
彼はけらけらと笑った。そうしていると、列車が到着する旨のアナウンスが流れる。
「話してくれてありがとう」
「うん。バイバイおじさん」
 最後にそう言葉を交わし立ち上がる。彼は見送ってくれるのか、乗車位置に立つ自分の横まで着いてきた。ゆっくり停車した電車に乗って振り返ると彼はニッコリと笑っていた。
「僕この電車で売ってるどら焼きが好きなの。食べてみて」
 得意げな笑顔で男の子はそう言った。ドアが閉まり、男の子が手を振った拍子に首から下げていたスマホのストラップが揺れる。マジックで「ごめんなおと」と書いてあった。
それに気を取られた一瞬で、ぐいっと電車が動き出す。緩やかに走り出した列車からホームを見ると、すぐに男の子は小さくなってしまった。もう会えないかもしれないけれど、会えてよかったなと思う。車内で買ったどら焼きは、本当においしかった。

 アパートに戻る道の途中で、かなり久しぶりに有賀の姿を見かけた。
「あら、木埜さんお久しぶり、お元気ですか?」
「どうも。…ええ、なんとかやってます」
 有賀は買い物帰りのようで、膨らんだエコバックを持っていた。なんとなく歩調を合わせ、アパートまで少しの道のりを歩く。チャンスだと思って、気になっていたこと尋ねる。
「以前お会いした時に伺いましたが、どうしてスマホを持たないんですか?」
「え?」
「以前水道が壊れたとき、スマホをお持ちではないと聞いたので、理由が気になって」
「ああ、そんなこと言いましたね」
 有賀はエコバックをよいしょ、と肩にかけ直して言う。
「別にいらないんです。あれば便利なのはわかるんですけどね。5年くらい前に解約しました。驚きました?」
「驚きました。実は私も3年前スマホ解約したんです」
「あはは、木埜さんもでしたか」
「私は…ちょっとこのデジタル社会が苦手なんです。みんながスマホの画面に必死なのも。昔あった熱気とか情緒が失われた気がして」
「ああ…わかりますよ」
 その言葉に思わず有賀の顔を見直す。
「私の夫はスマホが手放せないタイプで、動画を見たり、ブログを見たり…ずっと触っていました。こういう記事を読んでね、と私に話してくれるので面白いこともありましたけど、度を越えているようにも見えて……ある日、夫が右腕の痛みで病院に行ったんです。そしたらスマホを動かす動作や、長時間持ち続けることで腕が炎症を起こしたんじゃないかって言われたんです」
「そんなことがあるんですか?」
「現代病ですよね。夫は健康が自慢でしたから、ショックだったらしくてすぐスマホを見るのをやめたんです。解約まではしてないですけれど」
「有賀さん自身も同じ理由なんですか?」
「もともとあんまりスマホを持ち歩かないタイプでした。出かけるときも家に忘れちゃうし、料金ばっかり高くてね。息子も友人たちも近くに住んでますから家の電話があれば問題ないし、私の夫の仕事は基本的に在宅なので…ね、いらなくて」
 有賀はもう一度エコバックを肩にかけ直す。
「デジタル社会…スマホもそうですけどAIとかVRとか、すごいですよね。人と人が会わなくても成り立っちゃう時代で。少し孤独ですね」
「寂しいです…自分が若い頃はそうではなかったから」
 そう呟くと、有賀も思うところがあるようで沈黙が流れた。自分としても意識は切り替えてきたつもりだが、共感してくれた人に出会うとつい気持ちが引き戻されてしまう。
「なんか暗くなっちゃいましたね。できるだけ明るくいきましょう。いいこと探しをして」
「いいこと探し?」
「ええ。いいことを探していけば、振り返った時いい思い出ばかりで幸せになれるかもしれない。幸運なことに人って嫌なことは忘れるようにできていますしね」
 有賀はそういうと同意を求めるようにこちらを見きたので、それに対して静かに頷いた。

「いいこと探し、か」
 耳障りがいい言葉が心に残った。あとから考えたときにいい思い出ばかりになるかもしれないという考えは地元に戻ろうと思った自分の気持ちになんとなく通じるものがある。
 旅行の荷物を荷ほどきしてから一息つく。引き出しからコースターと手紙を取り出した。
この手紙は折に触れて読み返している。千明に送るはずだった手紙は、いつからか自分を奮い立たせてくれるものになった。読むと気持ちを切り替えていこう、と思い直すことできた。
しかし、読めばそのたびに思うこともあった。

 千明は今、何をしているだろうか。彼女は思い出を美しいと言ってくれるだろうか。

 たくさん言い争いもした。傷つけあった自覚がある。
 そのあと自分には新しい出会いがあって、傷を癒して忘れることができても、彼女はどうかわからなかった。この手紙を書いたとき、かなり酔っていた。酒にではなく自分にだ。 
 その年の4月に唯井と出会った。千明とは復縁をする話も何度も出ていて、どうしたものかと悩んでいた時だった。
 出会ったときから何か感じるものがある人だとは思っていたが、徐々に心惹かれていった。昔を懐かしみ、今を憂いた自分の話を馬鹿にせず力強い瞳で見つめながら聞いてくれる人だった。共感ではなかったが、理解をしてくれた。80年代の話や好きなアーティストの話も熱心に聞いてくれた。爽やかで少し勇ましさのある、素敵な女性だった。
 唯井に昔のことを話しているうちに、千明と駆け抜けた日々も思い浮かんできて切なくなった。彼女に対して誠実に対応しなければと思っていた矢先のことだった。
 5月に二人で日の出桟橋に出かけたとき、初夏の風を受けて微笑む横顔を見て彼女への好意をはっきり自覚した。愛しかった。その時に、千明と潔く別れてこの人と結ばれたいと思った。
 この日が離婚の準備を始めようと決意した日であり、この手紙を書いた日でもある。千明に連絡を取ろうとしたとき、丁度家でこの曲を聞いていて、歌詞が自分のことと重なって勢いでそのまま手紙にした。
 この手紙を出せなかったのは、負い目があったからだ。気持ちが唯井に傾いている中で、20年近く一緒にいた千明との時間を勢いに任せて適当に終わらせたくなかった。唯井への思いで浮ついた気持ちをギリギリの理性で落ち着かせ、この手紙に切手を貼るのをやめた。彼女へは別の手紙を書いた。感謝と謝罪を自分の言葉で述べた短い手紙だったと思う。それでも、誠意はしっかり込めた。きっとこれが正解だったと思う。
「いいこと探しね」
 そう言いながら、観光列車でお土産にもう一つ買っておいたどら焼きの包みを開ける。本当においしかったので追加で買ってしまったのだ。あの男の子との出会いも、どら焼きとの出会いも、いいことのうちの一つだなと思いながら。
 またしばらく、有賀に会う事はなかった。ただ、有賀の夫と思われる人とは何度かで合って挨拶を交わした。日々が過ぎていく。時間がゆっくりとしたものに感じられた。
 
 その日、市内のレンタルDVD店に向かった。最近はネット配信が主流なのでこういった店もほぼなくなっていて、貴重な店だった。
 あまり有名ではないDVDを探してうろうろしていたところ、急にすみませんと声をかけられる。誰だと思って振り向くと、そこには有賀がいた。アパート付近以外で出会うのは初めてだったので少し驚く。
「こんにちは。つい見つけたものだから声かけちゃって」
「どうもご無沙汰しています」
「元気そうでなによりです。…木埜さんも映画を?」
「ええ、好きなんです」
「この辺は…イタリア映画ですね」
「私は大学ではイタリア語を専攻していたんで好きなんですよ」
「あら!イタリア語を。おしゃれだわ。木埜さんらしい」
 有賀は陽気に笑いながら話していたが、突然真面目な顔をしてこちらを向く。
「だいぶ前にスマホや今の社会について少し話しましたよね。あの話、夫とも話したんですよ。そしたら昔の自分を少し笑ってから、木埜さんの考えに同意していました」
「そうでしたか」
「自分専用にカスタマイズされた便利な世界が広がることは、この先止められないでしょうね。どんな世界が来るか、ちょっと怖いです。でも割と楽しみでもあります」
 言葉を一旦そこで切り、有賀は視線を外した。そしてもう一度向き直り歯を見せて笑う。
「人生は何が起こるかわからないですから。更に無機質な社会になるとも限らないんです。進歩した技術があるだけで、人間自身が変わったわけではないですからね。これからの社会に人はどうやって適応していくのか楽しみです。その中でできたら情緒豊かな、活気のある雰囲気が生まれるといいなと私は願っています」
 有賀はまっすぐな瞳でそう言った。突然のことに驚いて聞いていたが、少しずつその言葉を咀嚼する。そして、ふ、と自然に口元に笑みが浮かんだ。
「私もそう思います。願っています」
「よかった。これを話したかったんです。ふふ、ポジティブに行きましょう」
「いいこと探し、ですか」
 そう言うと有賀は少し目を瞠った。そして嬉しそうに大きく頷き、レジの方へと歩き出した。
 彼女を見送ってしばらくそのまま棚を見つめていたが、今日はDVDを借りるのはやめようと思い、棚の前から去る。今日は自分で持っているイタリア映画の中で見たい作品を思いついたからだ。
「いいこと探し、ね」
どんな社会に揉まれても、どんな人生を生きても、最後に振り返った時に、いいものだったと思えるように。
 家路を急ぐ。すがすがしい気持ちが身体を満たしていた。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?