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食い入る写真たちよ

二度目に会うために吾輩の愛車で荻窪の実家近くまで迎えに行った際、後部座席があまりにシンナー臭がするモノなので
「ちょいと岸田さん(あの頃はまだ丁寧語)隣にラリってるヤンキー乗せてませんか?」なんつって
そしたら奴さん
「いやすいませんあまりに靴が汚いもんで会う直前までラッカーで黒に吹きかけてましたんですわ!」との事。
今では決して驚きはしないけれど、あの時の驚きはとんでもないもので靴の汚れをラッカーで上塗りして誤魔化そうとする輩を寡聞にして存じない。

「30台後半の未経験の奴にもう後のキャリアなんてありはしない」同級生の小森に囃し立てられて入ったサラリーマン時代のライタースクールの講師からそう言われた岸田。
その直後東北大震災が起き、

これはチャンスやんけ

先輩に頼み込んで東北まで駆けつけ運転手に。
この辺りが持ち前の厚かましさなんだけど何故かカメラ持参で缶詰め工場の復興現場を撮影し始めたところ、それを見た小森が、立ち上げた東北マグで取材をしないかと。

土日だけ副業で動画で救い出される缶詰を取り続けたら何やらいかつい賞をとりやがった、と。
それが
「缶闘記」

そんな話を聞いたのは石巻はじめ女川など東北被災地の、岸田の取材地を巡るため、岸田、岸田の中学高校大学の同級生の小森でまぐまぐの社長、当時パクチーハウスの店主佐谷、2011年以来のプータロー僕の4人での車旅の帰路の車内での事。

東京について4人ちびちびお酒飲みながら他の三人でガヤついたのは
「岸田だけがしがないサラリーマンをやってる。どうやらキャメラマンとしてのさいのーはあるかもしれない。
この際独立して一旗あげたらどないや?ここはみんなでお金は出そやないか。
岸田は社長やから251万円な。俺たちは残り249万を1/3ずつ出そうや。
と即座に決めて割と早い段階で彼の退社と起業が決まった。


退職や起業についていつも思うのは決めたら相談ではなく報告に終始する事、コレに尽きるとおもう。
「辞めようと思うのですか」
とか
「起業しようと思ってまして」

「辞めはったらよろしいやん」
「会社作らはったらよろしいやん」
以外の答えはそもそもないんやから。

ただ、ここできっしゃん(もう呼び名はコレで)がしたたかなのは、クレジットカードと家のローンを組んでから会社を辞めたという事。
そんな事までパワーポイントにまとめてプレゼン(なんの)してた。

また、彼のドキュメンタリー作品には一切のナレーションが入っていない。そのことを審査する側は意図的にナレーションを入れていないのだと判断して。かの有名な大林宣彦さんの目に留まり
「こいつ、パネーな!となったらしく。きっしゃんにしてみればナレーションの入れ方がわからないだけなのに思わぬ評価に、
「おや、おわかりですか?」
結果海外の映画祭もノーナレーションの方が審査上通りやすいというありがたいオチもつくしまつ。
本来未経験だし歳も歳なので正攻法では勝ち目の見えないきっしゃんはエレベーターピッチ(15秒から30秒というエレベーターに乗っているほどの短い時間内で自分のビジネスについてアピールする手法のこと)をすることを思いつく。
時には台湾の学生騒乱に単身乗り込み、現地に向かってfacebookを通してニュースメディアに取り上げられる。その時もアルジャジーラ?にくっついて物知り顔で取材して闇でカメラに収めるなどした。
しよった。
彼は言う幼少期や学生の頃に憧れ焦がれた心に存在し続けていたものはある日心から切り離された。
でも自分の好きな事、すべき事をしている最中にもう一度繋がる感覚を味わう事ができた。元々興味のあった取材する、だとかドキュメンタリーを撮ると言うことに立ち返ったような気がする、と。

さらに
「仮説を、建てて将来を、語る」
なんてかっこつけてるけどハッタリかましてイキル、イキリ散らかすてことね。コレは割と重要だと個人的には思っていて相手の印象に残ればコッチの勝ち。

とまぁ遅咲きかもしれないけれども良い話ばかりの自慢の友達。
「オレみたいなの世の中いっぱいおると思うねん」と吐いて捨てやがったけど、んなわけあるかい!

今は関西学院大学と東京都市大学と杏林大学とたまに教鞭を取ってハッタリとメッセージをないまぜにして、

「光の当たることのなかった、無名の志や未知の熱狂に、スポットを当てる、身近にあるのに誰も気づかなかったストーリーを発見し届ける。混沌と不安の中にも灯る小さな希望を伝える。作品を通して議論のスタート地点を作る」
をミッションに講義をぶってます。


一方で、ファインダーを動画用にではなく、静止画に向けて活躍してる友達に吉田亮人(あきひと)てのがいる。

彼はドキュメンタリー4あ、ドキュメンタリー5の小森の紹介である日、バングラデシュ繋がりで京都に吉田という面白いヤツがいる、どう?
と言うめちゃくちゃ曖昧な紹介を口頭で受け、なかなかバングラデシュ繋がりってのはないもんだから即座に是非、つって約束にこぎつけた。たまたまその時いたのが京都で吉田氏も京都にいたし、その時小森が持ち合わせていた吉田の著作Tanneryてのがあって「コレ要る?」と
「くれ」と
Tanneryその意味は革の舐めし職人くらいの意味だろう。他にも二冊彼の著作が手元にあり、そのどれも彼の直筆の手紙が添えられており、全て紙の製本、この本なんてのかな?紙は分厚く装丁がおしゃれなものばかり。
そもそも本が好きで、読むのも好きだけど紙の本も好きでだからひろのぶとのポリシーも大好きなんだけどここまでこだわる作家を寡聞にして知らないほどに亮人の本は独特だわ。
ちなみに文庫本なら新潮社のが好きで理由は栞が付いてくるのと、寝ながら片手で読む際に紙のグラデーションが綺麗で反射が心地よいから。

彼の写真家としての生命は公務員のサラリーとしての確実さを放棄して、奥様と義理のご両親から背中を押していただいて、さらにいとこと祖母との濃密かつ独特な関係性なんかの微妙な綾の中からの出発なのだと理解している。
いま手元に二冊ある
The Absense Of Two
は亮人(アキ)といとこ大輝と2人の祖母の物語。
いとこの自死と祖母の死。
2人の不在と残された幾枚もの写真を取り巻く思い出と涙。
アキを何泊も東京の家に泊め、何件も飲み歩き、シンガポールでも食事し、バングラデシュで父上とも食事をし、何時間も話し、シゲさん、シゲさん、と呼ばれるたびにどうしようもない愛しさに泣きそうになりながら「なんや」と応じるしかない始末。

見開きのページでは大輝が老いた祖母の寝巻きのボタンを念入りに止めている写真がある。
別のページでは縁側で2人外を眺めて何を見るでもなくずっと何かを眺めている仕草が写ってる。
また別のページでは大輝がばあちゃんのほっぺだをつねりながら通学の準備に勤しんでいる姿が映ってる。

ばあちゃんは外でスクーターの排気音が聞こえるたびに行方のわからない大輝が戻ってきたか!
と遠く大輝の姿を追うのだとか。

こんないとこと祖母を想うアキが友達でいて良かった。
アキのご両親も当初は息子が公務員となって安泰だと安心したろうが、今はバングラデシュでの仕事の成果もご覧になった事だし安心なさってると愚推する。
今でもSNSでアキの安否確認に余念がないらしいし。

自分の手元にはいまアキから贈られてきた限定版の
The Absence of Twoがある。
23歳で自死した大輝と88歳で他界した祖母の年齢を合わせた111冊限定のうち、念の入った重厚な一冊を贈ってくれた。
今ではないけど酔った時にはたまに1人で手に取って眺めて観ている。
Kindleでは絶対味わえないねありがとう。