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難病を背に受けて

2002年某日
ぽつりぷつりと大森駅まで徒歩で向かう途中での事。
ふと
「いつかお金持ちになったら年に幾らくらい欲しいとおもう?」

「さんぜんまん」 

諸藤はたしかに僕の目を一切見ずにそう言った。
覚えてる。
2人きりでやる事何にもわからない最中、(何言ってんだ)と思うと、思う。
僕だってそうだ。
何せ、資本金がなさすぎて、2人どう繋ぎ合わせても最低資本金で作れる合資会社しか設立できないうえ、諸藤に預金なんてこれっぽっちもなかったし、在職中のインセンティブをこっそり現金で貯めていた僕の20万円は消費者金融から借入していた50万円の返済で藻屑と消えた。
後にも先にも消費者金融に手を出したのがコレが初めてだし、自分でもその事を忘れるほどに余裕がないと言うのも珍しいのではないかな。

そんなに稼げる自分たちなんて想像もつかない。

僕の愛車はどこかから転がり込んできたオンボロのママチャリだし諸藤はテク(あるき)だし。

諸藤とお父さんに急遽借金をお願いして200万をご用意いただいて、スーツカンパニー?て安いスーツ売ってるお台場の店に行って大盤振る舞いで二着づつスーツを新調?した。
はずだった。

当てもなく集めた老人ホームをあてずっぽうに電話しまくっていたところ翌週のどこかで海老名に本社のあるなんとかいう会社の本社に呼ばれた!

テンションがてっぺんまで上がった我々2人は急にこしらえた、あまりに悲惨な名刺を慌ててプリントしてスーツを着込むも、なんと一着は大幅にサイズオーバーかつダブルボタンという出たち。
後にサイズオーバーは百歩譲ったとして、ダブルボタンのセレクトは自分は選ばないと主張するも諸藤は、
「自分の美意識に賭けてこと歳でダブルは選択しないしするわけない」と断固として譲らないものだから自分だけTシャツにスラックスで敵地へと向かうことにした。
ところがよ。
2人ともワイシャツがない。

なので、大森駅までを
ティシャツとスラックス着た若者とかろうじて上着とスラックス、革靴まで履いたものの、ワイシャツ抜きの若者が緊張したおももちで大森駅近くのSEIYUまで闊歩する事になった。

一世風靡セピアかよ。

“咲き誇る華は散るからこそに美しい”とはよく言ったもので
、あの時の我々は誇りに満ちた好青年だと今でも思う。

一転
徹と釜野が仲間になってくれてからコレが会社というものかと初めて気がついた。小田原の鴨宮駅近くの有料老人ホームの開設にはまだまだ時間がある。
チラシは誰がつくる?
どこに配る?
誰が配る?
そのお金は?
どこに営業かける
誰に営業する?
ドヤって営業すんの?
何もわからず仕舞い。この先目に見える高齢社会、増えてくる要介護者。
深刻な保険制度。
見えない事ばかりで売り上げなんてあるばずもなく
ソレでもお腹は空くの。
平日、自分は自転車で東は藤沢、西は小田原まで、特別養護老人ホーム、老人保健施設、民生委員のお宅、なんなら役所。
釜野は大井町?熱海くらいかな?
徹は自前の確か400ccのバイク飛ばして静岡とかまで同じく営業へ。
諸藤はなんならホーム待機。
よく覚えていないけれど。
とにかく空振りばかりで、透明な螺旋階段の登り降りを繰り返しているような毎日だったように記憶している。
昼食は順番にこさえた炒り卵にマヨネーズを混ぜたのをおかずにお米、をタッパーに詰めて各自が自転車に、もしくバイクに詰んで済ませたのだと。
釜野は河川敷で女子高生を片目で見ながらコソコソと、恥ずかしそうに食していたとよく聞いていたのを覚えている。
夕食は4日に一度回ってくる限られた当番で1人がありもしない腕に寄りをかけて。近くの激安スーパーでありあわせの食材をぶち込んで、煮るか、揚げるか、焼くか、炊くかして食卓?に寄せた。
各々プレートに取り合いの中取り合ってはバカみたいな大口を開けて食べ、ものの五分かそこらで平らげたのだとおもう。
食後は誰かが作った拙い広告をそれぞれの決まったエリアに徒歩で投函。たまにクルマの下に潜り込んでしまったチラシを必死になって取りに迎えた事は一度や2度ではない。
人気に感知して光る電灯なんかもあってビクついた事もしばしば。
もちろん空振り。
(なにをしてんだろ)
いつもおもっていたし、それを解消するには明日も徒歩で投函するしかないジレンマ。
こんな事をしていても誰もホームに入居するはずもなく4人ともそんな事ずっとわかっているはずなのに、誰も辞めようだなんて言わなかったし、もし言ってしまうと瓦解してしまう物事の大きさに狼狽て言い出せなかったのが大きかったのだと思う。
ある晩コンビニであまりの寒さに疲れて投函の合間に暖かい缶コーヒーを買って店外でタバコを吸ってるところを釜野にバレてしまった
「何してんすか」と。
彼が憤慨していたのは休憩していた事ではなく、こんな貧窮問答歌の折に缶コーヒーのような高価なモノに舌鼓を打っている先輩の諸行にであって決して喫煙にではない。決して。
それくらいにはお金がなかった。
月末の打ち上げは決まって一次会は吉野家でお腹を満たし、二次会は確か和民。あそこは原価で日本酒か焼酎が頼めたはずで4合か5合瓶を一本、の前に安いビールを二杯くらい飲んだのかな詳しくは、覚えてない。
反省会というか答え合わせ。
月末の飲み会としてはとても機能性の高いモノだと今では思う。1人1人のネガティブな点ポジティブな点を余す事なく指摘し、改善を要請していた。
「かまのあのな」
「徹言っとくけどさ」
「もろさんこの際言わせてもらいますけど」
「たぐさんいいかげんによぉ」
などと忌憚なく言える場はそうそうない。
徹あとでしばく
休話閑題

ある日自転車で走行中、臀部から強烈な痛みが走って初めてボラギノールを塗布した。
明くる日も塗布したけど完治せず、翌日から皆に黙って立ち漕ぎだけに終始した。

臀部というか肛門からの痛みは定期的に来ていて、翌年の長期休みで帰阪したクルマでの帰り道、後部座席でずっと寝ているとどうやら高熱が出ており、足にも結節性紅斑が点々と。。
口内の炎症もひどく有り体に言うと、喉の入り口まで口内炎ができているような症状が続いた。
過度のストレスだと思う。
皮膚科に診て貰い、どうやら難病かもと、相模原の大学病院での診察でベーチェット病という難病だという事が判明した。

入院中の喫煙所で奇妙なおじさんから話かけられ、

「君は死んだ事があるかい」
「私はありましてね」
「死んだ後魂だけ浮遊して2人の娘に会いにいったわけ」
「1人目は海外の高層マンションで映画鑑賞しててさ」
「2人目は岐阜の故郷のガソリンスタンドでガソリン補給してんのよアタス死んでんのに笑」

その話におったまげてそこから、死ぬと言う事に興味を持ち始め、ソギャル•リンポチェと言う人の本を取り寄せチベット仏教の本を読むなどした。
その内容には確かダライ・ラマが死ぬ間際に後継者の選定の今際の際に自身の死の際に指を刺し、その方向に産まれた男児、その男児が次のダライ・ラマなのだとか言う件がありそれにはおったまげた。
死とはホント不思議な事象でそこからの興味は止まることがなかった。コメットハンターの木内鶴彦さんの本も嘘みたいなホントの本。コメットハンターの木内さんが3度の臨時体験から月の起源にまで辿りついたとのタイムトラベラーの一面を持つとのもの。
また日本の脳である立花隆による「臨時体験」なる本も取り寄せては読んでみた。

人は必ず死に向かい、その過程で踏む場面なんてたかが知れている。今面し、接しているビジネスなるモノなんてちっぽけだしなんの価値もないのかもしれない。
だけれども、だけれども、ある日は男4人小さな部屋で議論を重ね粗茶が出涸らしになり、挙句に白湯になるまで飲み続けてつぎ続けても終わらない話し合いのなか見えて来た光明は、見晴かす未来はこの会社の繁栄でひいてはこの国の発展かも知れないなんて。
そんな訳ないのに真顔で考えてもいた。
はず。
それでも尚僕たちのビジネスなるものをちっぽけだと思えるほどの安っぽさを、どうやら自分は持ち合わせていないのかもしれない。

退院後自分は社員さんの健康を案じて自ら食事当番をかってで、夕食を率先して当番し、抜群に冷たい評価をいただくなどした。

「まずい」
「たぐちさん要ります?」
「どして退院してきたのですか?」
「寝る場所ないのでね」

歓待にむせび泣いたのは言うまでもなく

ノールックで東京発の大阪行き深夜バスのドリーム号へと。
飛び込むのでした。

退院後、
実はまぁまぁみんな心配してくれていたようで僕の退院はすなおに喜んてくれており、それは僕だって嬉しかったのです。
でもね。事務所からの道すがらメンバーで諸藤の高校からの同級生で弊社の5人目のメンバーの一成さんが
「周平くん(諸藤)が一番嬉しそう」と言い、諸藤はそっぽ向いてフル無視していたのを今でも、この先生涯忘れません。

難病と言う病を背に受けて